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水深60mの戦没船から遺骨16柱…太平洋戦争の激戦地トラック諸島で30年ぶり調査

読売新聞 / 2024年6月28日 15時0分

 厚生労働省は、太平洋戦争の激戦地・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)で14〜27日、戦没船から遺骨の収集を行った。水深約60メートルの深さに沈み、通常の潜水では作業が困難だった民間からの徴用船「愛国丸」を30年ぶりに調べた。(加藤学)

 海中に眠る愛国丸の鉄骨には海中生物が付着し、長い歳月の流れを感じさせた。同船での調査は1994年以来で3度目となる。太陽の光が差し込まない船内は真っ暗で、潜水士は白色のライトで先を照らしながら入り込んでいく。体に強い負担がかかるため、一人の潜水士ができる作業は一日1回、20分以内と短い。遺骨を見つけ、拾い上げると、船内に 堆積 たいせきしていた泥が舞い上がり、視界を遮る。

 潜水士の一人は「時には出口を見失い、焦ることもある」と語る。発見した遺骨はしっかりと胸に抱えて引き揚げた。

 今回の調査では16柱の遺骨が収容された。その中には頭部、下あごや 大腿 だいたい骨などもあり、現地で鑑定した明海大の坂英樹教授は「状態が良く、DNAの検出も期待できる」と話す。厚労省は遺骨を日本に持ち帰っており、DNA鑑定で身元の特定を進める。

 戦時中、トラック諸島には日本海軍の拠点が置かれており、1944年2月17〜18日、米空母部隊の攻撃を受けて約40隻の艦船が沈められた。

「父、母と同じ墓に」帰還祈る遺族男性

 「愛国丸」に乗り組んでいた機関兵の父を亡くした岡山市の松岡俊郎さん(83)は「父の遺骨を母と同じ墓で一緒に眠らせてあげたい」と願う。

 <俊郎が順調に成長しているとの事。こんなにうれしいことはない><一日に何回も写真を出して見て居る。何回見ても 可愛 かわいいものだ>

 松岡さんは、父・忠三郎さんが戦地から送ってきた約50通の手紙を今も大切に保管している。

 松岡さんが生後2か月だった1941年8月、忠三郎さんは軍に召集された。中国への派遣を経て、民間から徴用された輸送船「愛国丸」の乗組員になった。

 44年1月下旬、愛国丸は兵士を南方に運ぶため、神奈川県の横須賀港を出発。トラック諸島に到着後の2月17日、米空母艦載機の空襲を受け、海中に没した。大爆発を起こし、機関兵曹長だった忠三郎さんは数百人と運命を共にした。

 松岡さんに父の記憶はない。戦死の知らせが届き、木造の学校校舎のような場所に、母のとみこさん、祖母の美登さんと一緒に遺骨を受け取りに行った記憶だけがうっすらと残る。寒い季節だったという。渡された木箱を揺するとガラガラと音がして、中に入っていたのは小石だった。祖母は「石ころをもらってもねぇ」と泣いた。

 岡山市にあった自宅は空襲で焼かれ、戦後、母親と祖母の3人で6畳一間の粗末な自宅で暮らした。日々の生活に追われ、父のことが話題に上ることはほとんどなかった。松岡さんは「悲しませまいという2人の気遣いだったかもしれない」と振り返る。祖母は高校生の頃に鬼籍に入り、母も約50年前に亡くなった。

 父への思いが強まったのは、2015年に参加したトラック諸島での政府主催の慰霊巡拝だった。現地に向かう前、父が赴任地から自宅に宛てた手紙に目を通した。

 <俊坊よ。元気で早く大きくなってくれ><小生の行くところは一番安全な所だから、絶対に心配はない>

 文面からは、息子の成長を願い、家族の不安を取り除こうとする父の真心が伝わってきた。同諸島に着き、愛国丸が沈む海域にボートで行き、 水面 みなもを見つめたとき、父の思いが迫ってくるような気持ちがした。

 松岡さんは「静寂の海底で安らかに眠ってほしい」と願ってきた。しかし、近年は外国人ダイバーらが遺骨の写真をネット上に投稿するケースもあり、複雑な思いも抱いた。「父は自宅で子育てすることを楽しみにしていたはずで、無念だったと思う。墓で母と一緒にしてあげれば、母の供養にもなる」と語った。(川畑仁志)

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