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「修験復興が父の願い」と住職、大峯奥駆で百人率いるまでに…「よみがえりの地」熊野再生に尽くす

読売新聞 / 2024年7月7日 10時30分

再建した行者堂の前で「熊野を世界に知ってもらいたい」と話す高木住職(和歌山県那智勝浦町で)

那智山青岸渡寺 高木亮英住職 74

 大自然の中に神も仏も鎮まるという熊野。古来の山岳信仰に神道や仏教、密教などが融合して生まれたのが修験道だ。山に入って修行に臨む山伏は熊野への案内役を担い、参詣者が列をなして歩く様子を示した「蟻(あり)の熊野詣(もうで)」の立役者でもあったという。明治時代に廃れた「熊野修験」の復活に尽力した天台宗・那智山青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)の高木亮英住職(74)に経緯や意義を聞いた。(平野真由)

 修験道はおよそ1300年前、 役行者 えんのぎょうじゃが修行をしたのが始まりとされます。熊野三山の三つの神社がある場所で、それぞれ修行していた三つの集団を総称して熊野修験と呼びます。

 修験者は山伏とも呼ばれます。山伏は全国を巡って人を集め、熊野へ導く先達の役割も担いました。案内した人をどの宿坊に泊めるかという協定などもあり、今でいう旅行業のシステムが何百年も前に確立していた。興味深いですね。彼らがいなければ「蟻の熊野詣」という現象も起きなかったでしょう。今の熊野があるのは先達のおかげです。

 明治時代の神仏分離で、一大修験道場だった「那智山」は、それぞれ熊野那智大社と青岸渡寺に分かれました。修験道も廃止令が出されて途絶えてしまった。青岸渡寺の先々代住職を務めた父の四男だった私は、天台宗総本山・比叡山延暦寺(大津市)での修行を経て、20歳代で那智勝浦町史の 編纂 へんさんに関わり、熊野修験を知る機会がありました。

 父が亡くなった1987年、遺品の中に真新しい山伏の装束が見つかりました。「修験復興が父の願いだ」と解釈し、翌年には、その装束を着て山を歩き始めました。熊野から奈良の吉野・大峯までの険しい山々を約200キロ踏破する「 大峯奥駈 おおみねおくがけ」の復活です。

 いつしか所在不明となった那智山にある48の滝を古い絵巻を頼りに特定し、滝に入る寒行「那智四十八滝 回峰 かいほう行」も92年に復活させました。昨年10月には役行者の像をまつる「熊野修験那智山行者堂」も再建しました。

 熊野修験を知る人を増やしたい。この一心で取り組んできました。大峯奥駈も最初は数人だったけれど、今は春と秋の計7日間の修行で、一般人も含めて100人ほどが参加します。決して楽な行ではないのに。

 岩場や急斜面など、道なき道を分け入る。1本の木、1本の草に手を合わす。大自然の中で歩を進めると、自分自身を見つめ直すことができる。次第に心身が清まり、日頃は忘れがちだけど、本来持っている「他者に感謝する。思いをはせる」という慈悲の心を取り戻すことができます。それが〈再生〉。そのことを実感できるから、一般の人も熊野を訪れるのでしょう。「よみがえりの地」と呼ばれる由縁です。

 世界や日本を見れば宗教や民族、経済格差……。様々な理由で対立する事例が多い。一方、熊野では異なる信仰が互いを認め合い、調和している。類いまれな場所だと思っています。この熊野の心を広めることが、世界平和にもつながると信じています。

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