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エゴサーチがやめられない、永遠に離れられない姉妹…読みやすかった芥川賞候補作に漂う「実感」

読売新聞 / 2024年7月13日 7時4分

尾崎世界観さん

 第171回芥川賞の候補作5作が発表され、東京・築地の新喜楽で17日に選考会が行われます。今回の候補には、ミュージシャンの尾崎世界観さん(39)や医師でもある朝比奈秋さん(43)など、多彩な背景を持つ作家が並びました。今回の選考のカギは、音楽表現の第一線や命の現場などで、それぞれの書き手が味わってきた「実感」が、どのような形で流れ、いかに評価されるかではないでしょうか。(文化部 待田晋哉)

SNS時代のアーティストの苦悩

 フィクションである小説と実人生がまったくの別物であることは、文学作品を読むうえでの大前提です。それでも現在のアーティストは、これほどSNSの評価に根底から自己肯定感を揺さぶられ続けているのかと、深く考えずにはいられません。ロックバンド「クリープハイプ」のボーカル、ギターでもある尾崎さんの「 (てん)の声」(文学界6月号)は、異様な生々しさを持った作品です。

 物語の主人公は、新進音楽バンド「 GiCCHO (ギッチョ)」のボーカル 以内右手 (いないみぎて)です。テレビの地上波音楽番組に初生出演するなど勢いにのる一方で、のどの不調をひそかに悩んでもいます。

 【GiCCHO 声】【GiCCHO 歌】【GiCCHO 調子】

 番組が終わった途端、エゴサーチをやめずにいられなくなった彼は、自らの価値を確かめるかのように、ネット上で自分のバンドのチケットがどのように転売されているのかを確認することにのめり込んでいきます。

 かつては歌うこと自体が、自分の心のタンクを満たすものだったはずなのに、SNSの評価にさらされ続けた末に、反応がなければ満たされなくなってしまう。対象を変えれば誰にでもあてはまりそうなSNS時代のわなが、これでもかというほど書き込まれるのが本作の魅力です。コロナ禍後の芸能界の潮流を踏まえ、後半に進むにつれ、物語のエンジンはさらに空ぶかしを続け、焼けつき、黒い煙をたてるまで、アクセルが踏み込まれていきます。

人間が生きるとは、意識や命の尊厳とは

 医師でもある朝比奈さんは、左手の移植手術を題材にした「あなたの燃える左手で」で泉鏡花文学賞や野間文芸新人賞、植物状態の母と娘の触れ合いなどを描いた「植物少女」で三島由紀夫賞を受けるなど、人間の生命とその背後にある大きなものを見つめた作品群で、現在最も注目されている気鋭の書き手の一人です。

 候補作の「サンショウウオの四十九日」(新潮5月号)は、その設定にまず、あっと驚かされます。

 濱岸杏と瞬の姉妹は大学病院の看護学部を出て、現在は工場で働いています。一見、それなりに落ち着いた社会人生活を送る彼女たちは実は、「結合双生児」だと明かされます。一つの体に、面長の左顔と丸い右顔が真っ二つになってくっつき、そのほか胸も腹もすべて、違う体のものが張りついています。

 さらに、彼女たちの父親は、その母のおなかの中に兄が「胎児」としているとき、兄の中に「胎児内胎児」として息づき、兄が生まれた後に取り出されたというのです。

 一心同体と言えば、人間の原形はかつて、手足が四本、二つの顔があり、背中合わせでつながっていたと説くギリシャのプラトンの「 饗宴 (きょうえん)」の一節が思い出されます。強大な力を持った彼らは神の怒りを買って切り離され、互いの片割れを求めてさまようことになりますが、杏と瞬の2人は、外見上が一つの体であるだけでなく、永遠に離れられないのです。

 作者はその設定の特殊さに溺れることなく、心温まる人間の命のドラマを展開させていきます。どこまでが杏で、どこからが瞬なのか、寄せては返す波のように、言葉も意識も揺さぶられ、気がつけば静かな場所に打ち上げられている自分に気づかされます。

危険すぎる登山の体験

 インパクトのある著者名と題名通り、期待を裏切らない読書体験を残すのは、松永K三蔵さん(44)の「バリ山行」(群像3月号)です。転職先の職場で登山グループに参加するようになった男性は、社内で浮いた雰囲気を漂わせる一人の男が気になり始めます。彼は、実は「バリ」すなわち、通常の登山道とは違うコースを行く「バリエーションルート登山」の実践者でした。やぶをかき分け、岩を登り、谷底に体が墜落する恐怖を覚え……。仕事や生活の不安が取るに足らない小さなものに見えるほどの危険な山行、そこで映る心の風景を再現する著者の筆力に圧倒されます。

 坂崎かおるさん(39)の「海岸通り」(文学界2月号)は、介護施設で知り合った日本人とウガンダ人女性の交流を描きます。初めは遠い存在に感じていた2人は、仕事の間に会話を交わすうち、同じ社会の片隅にいる女性同士として距離を近づけていきます。なにげない会話や場面が生きています。超高齢化社会の現場で、かつてなら接点を持つ余地もなかった日本とアフリカの女性たちに、互いに心を寄せ合う状況が生まれている現実を柔らかく描き出しています。

亡くなったはずの親友から電話

 ほかの4作と違って今回唯一、幻想的な世界を展開させたのが、詩人でもある向坂くじらさん(29)の「いなくなくならなくならないで」(文芸夏号)です。一人暮らしをする大学生の時子のもとに、ある日一本の電話がかかってきます。かけてきたのは、死んだはずのかつての親友で、高校時代の同級生だった朝日でした。自然な成り行きで、2人の奇妙な同居生活が始まります。

 この世とあの世にいる者をめぐるストーリーと聞けば、生と死の境が人を分かつことで生まれる感動や悲劇を強調する映画「ゴースト/ニューヨークの幻」のようなストーリーを想像するかもしれません。ですが向坂さんの作品は、この大きなはずの分断を一見投げやりなほどそっけなく扱い、自然に2人の同居生活や家族たちの日々を描いていくのが面白いところです。

 「生者と死者」「同性の親友」などといった既存の関係ではくくれない人物たちを描くことを通して、人間や生きることの喜び、 (かな)しみそのものを見つめているようです。

 近年では珍しいほど読みやすく、胸に響く候補作が、今回の芥川賞にはそろいました。本から少し遠ざかっていた人も、どの一冊からでも、広い読書の世界へ誘われることは間違いありません。

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