1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

1900年パリ五輪でもセーヌ川を舞台に選手が躍動した…クロール「生みの親」も

読売新聞 / 2024年7月26日 20時13分

[パリ五輪こぼれ話]…1900年のパリオリンピック<6>

 100年ぶり3度目の開催となるパリオリンピックでは、パリ市内を流れるセーヌ川にも注目が集まる。開会式では選手の船団がパレードし、トライアスロンのスイムや水泳のオープンウォータースイミングが行われる予定だ。ただ、花の都を潤す大河でオリンピック競技が実際に行われるのは今回が初めてではない。1900年に開かれたパリ大会でも、競泳はセーヌ川が舞台だった。

 当時の会場は、エッフェル塔から十数キロ下流に位置するクルブボワ橋からアニエール橋までの一帯。この大会の競泳で話題となったのが、オーストラリア代表のフレッド・レーンだ。国際水泳殿堂の公式サイトで紹介されているプロフィルなどによると、シドニー近郊の港町で育ったレーンは幼少の頃から、水泳に類いまれな才能を発揮し、1899年には440ヤード(約402メートル)のオーストラリア記録をマーク。イギリスでの競技会では220ヤード(約201メートル)の世界記録を樹立し、20歳を迎えて乗り込んだのがパリオリンピックだった。

 レーンを五輪王者に導いたのは、当時の最先端を行っていたその泳法だ。水泳と言えば、19世紀前半までは平泳ぎや横泳ぎが主流だったが、19世紀後半に入ると、より速い泳ぎを模索する動きが広がり始めていた。イギリス人のジョン・トラジオンが1873年、南米滞在中に見かけた現地人の泳ぎを参考に、両腕を交互にかいて水面上に出す「トラジオン・ストローク」を考案。スピードで勝る一方、疲労度が高いため、100ヤード(約91メートル)程度までの短めの距離で有効な泳法と考えられていたが、レーンは200ヤード以上のレースでも採用した。横向きで両脚をハサミのように動かすのが一般的だったキックも、膝下を細かく動かす動きに改良し、より推進力の大きい泳ぎを身につけた。

 パリオリンピック200メートル自由形では前半、ハンガリー選手に先行されながらも後半に引き離し、2位と6秒2差の2分25秒2でレーンが優勝した。セーヌ川に浮かぶ小舟をよじ登ったり、舟底の下に潜ったりしながらゴールを目指す200メートル障害も、2分38秒4で制した。レーンの強さは、当時オーストラリアで発行されていた新聞「レフェリー」でこう評されるほどだった。

 「この泳法が出来る人でも、100ヤード以上のレースで使う人はまずいない。長距離種目でも出来るのは、オーストラリア王者のレーンだけだ。(その泳ぎ方が)体に悪いことは、レーンが身をもって示している。疲労のあまり、手助けしてもらわないと水から上がれないし、時には鼻血も出している。レース後は何時間もへたばっていることでも知られている。教訓:短距離以外では、トラジオン・ストロークを使うな」(1900年7月11日付、4ページ)

 トラジオンが生み出し、レーンが改良した泳ぎはその後、バタ足に切り替わるなどして、1900年代初頭にクロールとして確立されていく。より速く、より強く――。レーンがオリンピックで示したアスリートのDNAは、世紀を超えて受け継がれている。(デジタル編集部 深井千弘)

 パリで初めてオリンピックが行われたのは、1900年。同じ年に開かれたパリ万博に付随した運動・スポーツ国際大会として開催された。大会期間は5か月余りに及び、選手は国・地域の代表ではなく個人の資格で参加するなど、大会運営方式は現在と大きく異なっていた。1924年にも行われ、フランスの首都では3度目となる今夏のオリンピックを機に、近代オリンピック草創期に開かれた大会のエピソードを紹介する。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください