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天国の「鬼」に導かれた道、親子で制覇「絶対に譲れない」…柔道男子100キロ超級・斉藤立選手

読売新聞 / 2024年7月11日 7時34分

[花開け Paris2024]<1>

 パリ五輪の開幕まで2週間余りとなった。花の都で開かれる100年ぶりのスポーツの祭典。日の丸を背負い、夢の舞台に挑む代表選手たちの思いを伝える。

 「父の日」を控えた6月上旬。初の五輪に挑む柔道男子100キロ超級の斉藤 たつる選手(22)は、大阪市の実家で遺影に手を合わせた。

 写っているのは穏やかな表情の父、仁さん。五輪を連覇し、日本代表監督も務めた。誰もが偉大な父と、身長1メートル91、体重165キロの斉藤選手の姿を重ねる。

 幼い頃は「柔道が嫌いで仕方なかった」。本気で向き合うきっかけは、父の死だった。

 小学1年で兄と競技を始めた。柔道着を着ると、優しい父は「鬼」になった。柔道用の畳に入れ替えた自宅の和室で、技の動作を繰り返す「打ち込み」をやらされた。家の前の電柱を相手に見立て、投げ技の練習をさせられたこともある。

 技をかける時の足の運び方や重心移動をミリ単位で指示された。位置がずれると、「違うだろ」と怒号が飛ぶ。「お前たちには日本代表と同じことを教えているんだ」。前襟をつかみ、腰を回して技をかける基本を徹底させられた。

 場所も問わない。順番待ちのレストラン前、人々が行き交う駅の地下街……。いきなり稽古が始まる。人目を気にすれば、たちまち不機嫌になった。

 帰宅して玄関に父の靴を見つけると、泣きながら来た道を引き返した。できることなら、やめたかった。サボることばかりを考えていた。

 小学6年の時、父はがんに侵された。病状が徐々に悪化して入院。見舞いに行くと、ベッドに座ったままの父から、「体落とし」を教え込まれた。

 闘病生活は、1年後に終わる。54歳の若さで旅立った。その直前、母の三恵子さん(59)が病室で告げた。「絶対に立派な柔道家にするから」。父の目から涙がこぼれ落ちた。

 まだ中学1年、死の実感はなかった。1か月後の有力選手が集まる強化合宿。著名な指導者たちから、父との思い出や柔道家としての功績を聞かされた。急に自分が情けなくなった。

 「あんなに熱心に教えてくれたのに、俺は何をやってたんや」。トイレに駆け込み、声を殺して泣いた。「強くなりたい。本気で柔道をやらなあかん」

 父と約束していた中学日本一を3年の時に成し遂げる。高校は生まれ育った大阪を離れ、父の母校の国士舘(東京)に進んだ。

 日本男子の鈴木桂治監督ら、トップレベルの指導者から教えを受けると、「あの時に言われたことと同じだ」と、父の的確な指導に気づかされる。

 今も耳に残るのは、亡くなる前日、父が振り絞るように発した最後の言葉。「稽古に行け」。その遺言を胸に、教わった動きが体に染みつくよう、自分を追い込んできた。

 父が制した2度の五輪の映像は何度も見た。1984年ロサンゼルスの「根こそぎ一本を取りにいく柔道」に憧れた。右膝を痛めながら、日本柔道の金メダルゼロの窮地を救った次のソウルは、心を揺さぶられた。

 「おやじとうり二つ」。意識したことはないが、何度もそう言われてきた。首を左右に振りながら畳に上がる。「始め」の声とともに、両手を大きく掲げて挑みかかる。得意技は、徹底的に教わった体落としだ。

 父に導かれ、進んできた「 やわらの道」。頂点を極めれば、日本柔道界初の親子での五輪制覇が実現する。「絶対に譲れない。父の名に恥じない柔道を見せ、何が何でも勝ちに行く」(蛭川裕太)

柔道男子 1964年の東京大会で採用された。68年のメキシコ大会で除外されたが、72年のミュンヘン大会で復活。現在は体重別に60キロ〜100キロ超級まで7階級あり、前回の東京大会では過去最多の5階級で金メダルを獲得した。66キロ級の阿部一二三、81キロ級の永瀬貴規、100キロ級のウルフ・アロンの3選手は連覇に挑む。

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