「甲山事件」3度目の無罪判決まで25年、「法とは何か」問い続け…冤罪体験伝え次世代に託す
読売新聞 / 2024年7月17日 10時38分
兵庫県西宮市の知的障害児施設「
園児2人は園内の浄化槽から遺体で見つかる。兵庫県警は職員による犯行と見込み、4月7日、男児を殺害した疑いで山田さんを逮捕した。
「法は私を守ってくれるんじゃないんですか。なぜ逮捕して苦しめるんですか」
3度目の無罪言い渡しで判決が確定するまで25年、それから25年。普通に生きる権利を奪われた甲山事件の山田さんは「法とは何か」を考える。(教育ネットワーク事務局 渡辺嘉久)
知的障害ある生徒に教師がビンタ
愛媛県新居浜市で育った山田悦子さん(72)には忘れられない出来事がある。言葉と歩き方が不自由な仲良しの女の子は、小学校にあがると、体育の授業で一人だけ、教室に残された。中学では宿題を忘れた女子の中で、知的障害のある一人だけが、罰として、男子と一緒にビンタを食らった。教室には毛筆で書かれた「自由 平等 博愛」の文字が掲げられていた。「なんと矛盾に満ちたことか」
知的障害があるというだけでなぜ、理不尽な扱いを受けるのか。素朴な疑問は将来の夢に変わる。ビンタの一件の後に見たNHKのテレビ番組「青年の主張」だったと記憶している。「『知的障害を持つ子どもとの触れ合いがどんなに素晴らしいか』という保母さんの話を聞いたんです」
保母になると決めた。思い込んだら後には引かない。
短大の保育科に進んで資格を取り、兵庫県と富山県の知的障害児施設から内定を得た。父には反対された。「勘当」にもひるまなかった。「富山より近い兵庫の
現実は厳しく「肉体労働で子育てそのもの」の毎日だった。それでも「
事件当日激しく動揺、それだけで疑いの目
園児2人の遺体が発見された浄化槽からは、ブリキのおもちゃや爪切りも見つかった。職員は園児が蓋を開けて遊んでいたことを知る。「事件にも関わっているのでは」との見方が広まった。
兵庫県警は「職員による犯行」として捜査を進める。外部から侵入した形跡はなく、重さ17キロの蓋を園児が動かせるはずがない――と見込んだからだ。園内は動揺する。「誰もが犯人にされたくないわけですよ」。女児が行方不明になった日の当直で、激しく取り乱していた――これだけの理由で山田さんに疑いの目が向けられた。
新学期を前に保護者会が開かれていた4月7日、山田さんは逮捕される。「涙がぼろぼろ出て、腰が抜けるほどのショックでした。警察は正しい、市民の味方だと思っていましたから」
アリバイを証明しようと、黙秘はしなかった。警察の留置場で寝起きし、1日12時間前後の取り調べを受ける「代用監獄」の日々は、全てが支配されていると感じた。逮捕10日後の17日、うその自白をしてしまう。
この日は女児の月命日で、山田さんは父との面会を初めて許された。取り調べの警察官が言う。「お父さんはため息をついていた。『悦子がやったのでは』という疑いのため息だ」「このままでは(女児も)安らかに眠ることはできない」
「学園の同僚だけでなく父も疑っている。もうどうでもいい」
「殺したのですね」と聞かれ、「はい」と答えた。
留置場に戻った山田さんはハイソックスで首を絞め、自殺を図った。無実を訴えるためだった。「苦しくなると手の力が緩み、自分で首を絞めて死ぬなんてできなかった」
刑法には「人を殺した者は、死刑または無期もしくは5年以上の懲役に処する」とある。接見の弁護士からは「警察は自白を得るため『殺人でも死刑にはならない』と言って六法全書を見せる」と聞かされた。
この夜、取調室に現れた警察官の手には六法全書があった。「警察は本気で私を犯人にしようとしている」
それからは否認を貫いた。物証はない。処分保留で釈放、不起訴となった。
自らの無罪と園児の人権守る闘い
男児の遺族の申し立てを受け、神戸検察審査会は不起訴不当を議決する。神戸地検は78年2月、山田さんを再逮捕、起訴した。決め手は元園児の新たな供述だった。「山田さんが男児を連れ出したのを見た」という内容で、事件から3年以上たって得られた。
神戸地裁の1審に特別弁護人として加わった奈良女子大学名誉教授(法心理学)の浜田寿美男さん(77)=写真=は、100通を超す元園児たちの捜査資料を時系列に並べて検討した。「当初は『見た』とも言っていなかった元園児が、3年後に『僕は見た』『引きずり出すところを見た』と話すようになる」。供述の「起源」が体験でなく、事情聴取などで聞かされた情報にあり、誘導されたと分析する。検察は「知的障害者は、自分が経験しない事実を教えられ、記憶して表現する能力に欠ける」とし、供述は信用できると主張した。
山田さんを支援する福祉団体関係者からは「知的障害者も他人の関心を引こうとしたり、話に影響されたりして作り話をする。『障害者だから』という検察の見方は差別的だ」との声があがった。
裁判は自らの無罪を勝ち取ることに加え、元園児の人権を守る闘いとなっていく。判決は85年10月17日、
「私の人権、子どもたちの人権も
「法は温かい」と感じた。「法とは何か」を知りたいと思った。
ようやく無罪確定、「法を学びたい」
1審の非公開尋問では、別の元園児が、女児を浄化槽に転落させて蓋を閉めた、と述べている。「職員による犯行」という見込み捜査の誤りを強く印象づけた。それでも検察は控訴する。大阪高裁は「審理を尽くしていない」として無罪判決を破棄、差し戻した。
差し戻し審では「山田さんが男児を連れ出したのを見た」という元園児の証言の信用性が争点となる。判決は「事件から3年後の供述は不自然で、内容も矛盾が多い」として再び無罪を言い渡す。第2次控訴審は「捜査官の暗示・誘導の可能性が高い」と踏み込み、山田さんについては「犯人との推認は全くできない」と断じる。3度目の無罪判決だった。検察は上告を断念し、山田さんの無罪が確定する。
山田さんは78年3月の起訴後間もなく保釈された。自由はあった。嫌な思いもした。
自宅にはカミソリ入りの脅迫状が送られてきた。週刊誌の記者は取材を断ると玄関先につばを吐いて立ち去った。
無罪確定を受け「法を学びたい」との思いを強くする。「25年間、司法権のど真ん中に引きずり込まれ、もてあそばれた。
カンパなどから弁護士費用などを精算すると100万円が残った。これをもとに2001年3月、法曹関係者を集めた講演会を始める。神戸地裁1審の裁判長で、最初の無罪判決を言い渡した角谷さんを講師に招こうと手紙を書く。しばらくすると断りの返信が届いた。〈私などの想像も到底及ばない苦しみを乗り越えてこられたうえに、改めて司法や法を取り巻くもろもろの問題をめぐり話し合いを重ねてみようとのご計画を進めておられるとか、その試みが豊かな実りを残しながら永くつづけられていくことを心から祈念しております〉
文面に改めて「法の温かさは人間の心の温かさだ」と思う。講演会は5年ほど続いた。04年以降は、コロナ禍の影響で今は中断しているものの、セミナーを開催している。
人脈は甲山事件が築いてくれる。差別問題をきっかけに支援を受けた歴史家の奈良本辰也さんと京都大学名誉教授だった井上清さんの対談に立ち会ったことがある。奈良本さんの言葉が忘れられなかった。「歴史は現代社会の幸せと結びつく
体験紐解き若者へ講演、思い伝える
冤罪体験をどう紐解くか。山田さんは若者への法教育に取り組む。
甲山事件については作家の松下竜一さんがノンフィクション「記憶の闇」を書いていた。松下さんをしのぶ「竜一忌」で2010年6月、京都教育大学付属高校の教員だった
生徒からはこんな感想が寄せられた。「裁判は被告人、被害者だけでなく、家族や関わりを持つ人の人生を左右する」「闘わずして人権は守れない」「『法は温かい』という言葉がとても印象的で、学んでみたいと思った」
山田さんの思いは伝わっていた。
今年6月、山田さんは、札埜さんが教える龍谷大学で、教員志望の学生約130人を前に講演する。間もなく21歳になる3年生の中村
中村さんたちに22歳の自分を重ねていた。
裁判員裁判導入など司法改革は進んだとされる。冤罪はなくせるのか。山田さんは答えてくれた。
「法を
わたなべ・よしひさ 1987年入社。社会部、政治部、世論調査部、編集委員、紙面審査委員会委員長などを経て、教育ネットワーク事務局。今年1月末で定年となり、現在は再雇用のシニア嘱託。大学で非常勤講師も務める。若者の可能性がまぶしい。60歳。
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