ウクライナ柔道選手が五輪へ、妻は元ロシア代表…4年前に一目ぼれした思い出の地で「勝利を世界に示す」
読売新聞 / 2024年7月19日 12時58分
「平和の祭典」パリ五輪の開幕まで19日で1週間となった。2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵略は、スポーツ選手の競技生活も一変させた。ウクライナ政府の発表によると、ウクライナでは五輪出場経験者を含む選手や指導者、約480人が露軍の攻撃で死亡した。ウクライナ選手団は、夏季五輪では過去最少の約140人になる見通しだ。柔道男子66キロ級のボグダン・イアドフ選手(27)は、結婚で柔道を断念した元ロシア代表の妻ダリアさん(29)の支えを糧に、「ウクライナの勝利を世界に示したい」と臨む。(キーウ 倉茂由美子)
ウクライナの首都キーウにある国家警備隊の柔道場を今月9日に訪ねると、同隊に所属するイアドフ選手は滝のように汗を流し、稽古に励んでいた。
柔道場は照明と冷房が切られ、薄暗くサウナのように蒸し暑かった。露軍によるエネルギー施設への相次ぐ攻撃で、電力不足が深刻化しているためだ。前日には、市内の小児病院などに複数のミサイルが撃ち込まれた。7歳の時、柔道を始めるように勧めてくれた父コンスタンティンさん(54)は、北東部ハルキウ州の戦闘の前線で任務に当たる。
イアドフ選手がダリアさんと出会ったのは2019年2月、パリで開催された国際大会グランドスラム(GS)だった。その数か月前、別の国際大会で、ロシア代表として出場していたダリアさんに一目ぼれしたイアドフ選手は、SNSで「一緒に散歩をしない?」と誘った。
パリの街を歩き、セーヌ川の橋で長時間互いの話をした。ロシアが14年にウクライナ南部クリミア半島を一方的に併合したのを機に、両国の「戦争」は始まっていたが、「国の争いは気にならないほど思いが通じ合った」という。約1年後の20年1月、キーウで結婚した。2人とも成績が順調に上がっていた頃。競技を続け、共に五輪を目指そうと思っていた。
だが、両国の状況は2人が思う以上に厳しかった。
ダリアさんはロシアに一度戻って、コーチに結婚を報告した。コーチからは3年間、大会への出場資格を停止すると告げられた。
コーチは「我々は戦争中だ。ウクライナに行けば殺される。男もすぐに心変わりをする」とまくし立てた。
ダリアさんは「そんなことはない。どこにいても柔道は練習できる。続けさせてください」と懇願したが、「ウクライナにくら替えして、ロシアを倒そうとするかもしれない。そんなことは許されない」と聞き入れられなかった。ダリアさんは結婚と引き換えに、それまでの人生全てをかけてきた柔道を失った。
愛する国・家族背負い 戦下の競技「責任と執念」
侵略が始まった当時、イアドフ選手は遠征でスペインにいた。柔道の元ロシア代表選手だった妻ダリアさん(29)は妊娠初期で、ウクライナ中南部クリビー・リフにあるイアドフ選手の実家に滞在していた。
露軍の攻撃が強まり、ダリアさんはロシアにいる祖父母に電話をしてみた。「落ち着きなさい。プーチン大統領はロシア人を守ってくれている」と言われ、プロパガンダに染まっていることにあぜんとした。
拠点変えず
ダリアさんはウクライナ西部の都市を転々とした後、ハンガリー経由でオランダに一時避難した。次々と国境を通過するウクライナ人の女性と違ってロシア旅券を手にしたダリアさんは出国前に長時間質問を受けた。
欧州で合流したイアドフ選手とダリアさんがキーウに戻ったのは、4月末の欧州選手権が終わってからだった。イアドフ選手は優勝し、欧州に拠点を移すよう勧められたが、「自分の国は離れられない」と断った。
所属する国家警備隊の柔道選手も、一部は戦闘の前線に派遣された。「もう自分の柔道人生は終わりかもしれない」とも覚悟したが、競技継続を許された。
環境が一変
稽古の環境は一変した。空襲警報が鳴れば、練習を中断してシェルターへの避難を余儀なくされる。国内の空港が閉鎖され、国外遠征は最寄りのポーランド・ワルシャワの空港にバスや電車を乗り継いで到着するだけで丸1日かかるようになった。遠征先でも携帯電話で空襲警報通知を確認し、攻撃の情報があれば家族に「無事か?」とメールした。「携帯電話を片手に柔道をやっているようだった」
成績は侵略前よりも上向いた。23年2月のパリ・グランドスラムで優勝するなど主要大会でメダルを獲得した。「国を代表する責任の重さと、勝利への執念」が原動力になっている。
長男マトビーちゃん(1)が生まれ、母となったダリアさんの存在も大きい。試合で負けると、遠征先からいつもダリアさんに電話をかける。映像をチェックし、何が悪かったかを分析して的確なアドバイスをくれる。そして必ず「大丈夫、次は勝てる」と明るく励まされる。「最愛で最強のパートナー」だ。
複雑な思い
ロシア人のダリアさんには複雑な思いもある。
ウクライナはロシア選手の五輪出場に反対を表明し、イアドフ選手も支持していた。ただ、ダリアさんにはロシアスポーツ界の独特の厳しさや、選手が生き残るためにどれほどの時間と労力を割いてきたかが痛いほどわかる。「選手に戦争の責任はない。出場は認められるべきだ」と思っていた。
それでも、露軍の攻撃や遠征の長時間移動などで疲弊していく夫の姿や、スポーツ施設が破壊されたニュースなどを見ているうちに「戦争を仕掛けている側が、万全の準備を整えて大会に出るのは不公平だ」と思うようになった。
今回、ダリアさんはパリまでの移動が難しく、マトビーちゃんと一緒にキーウで大会を見守る。パリは2人が出会った「幸運の地」でもある。イアドフ選手は「自分の戦いを通じ、戦争ではウクライナを壊すことができないと示したい」と語った。
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