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旧浦上天主堂に集まる信徒の姿や中々進まぬ工事の模様も…建造中の写真12点、フランスに存在

読売新聞 / 2024年7月20日 15時0分

原爆資料館「被爆前の暮らしがうかがえる」

 長崎原爆で壊滅した浦上天主堂(長崎市)の建造途中の写真がフランスに残されているのを長崎市の1級建築士が確認した。再建前の旧天主堂関連の資料は多くが原爆で失われたとみられており、長崎原爆資料館(同)は「被爆前の人々の暮らしの一部がうかがえる貴重な資料だ」としている。(坂口祐治)

 確認したのは、長崎県建築士会専務理事の高橋弘一さん(65)。約7年前、同県新上五島町文化財課の専門員として、キリシタン関連の世界遺産登録に向けた調査を担当していた際、写真の画像データを入手した。

 写真はカトリック団体「パリ外国宣教会」(本部・パリ)に残されており、映像関係の制作をしている知人男性から「研究に生かしてほしい」とデータを託された。43点あり、そのうちの12点に旧天主堂建設が記録されていた。残りは県本土や離島にある計12か所の教会などを明治~大正期に撮影したものだった。

 旧天主堂関連のうち、「日本浦上1911年のある日曜日」(写真〈1〉)では仮聖堂に転用した庄屋屋敷とみられる建物が確認できる。日曜日のため、子どもを含む多くの信徒らがミサに集まり、写真に納まったと考えられるという。着工から15年以上経過していたが、日露戦争による中断や資金難もあり、工事があまり進んでいなかった様子がうかがえる。

 「日本浦上教会(建設中)1912年9月」(写真〈2〉)と「日本浦上教会1912年」(写真〈3〉)では、木材を使った足場が2階部分まで格子状に組まれている。前年の1911年(明治44年)、工事を指揮した神父が死去。別の神父が引き継ぎ、建築が一気に進んだとみられ、15年(大正4年)に完成した。

 写真には、それぞれフランス語で説明が付いていた。高橋さんは撮影された理由について「工事の進み具合をパリの本部に定期的に知らせ、資金調達や 進捗 しんちょく報告に活用したのではないか」と推測。「旧天主堂は設計図も残っておらず、これらの写真から施工順序や構造が推察される。当時の足場の組み方が分かるのも興味深い」と話す。

 高橋さんは、旧天主堂以外の教会の写真についても考察し、関連する論文を執筆。長崎県が昨年5月に発行したキリシタン関連の世界遺産に関する「研究紀要」に収録された。今年6月には長崎歴史文化博物館(長崎市)で講演し、研究成果を発表した。今後、写真展を開催することも検討している。

 原爆投下で旧天主堂周辺では信徒約1万2000人のうち約8500人が亡くなったとされる。長崎原爆資料館の奥野正太郎学芸員(38)は「集合写真からは、大勢の信徒たちが完成を目指した強い思いが伝わってくる。原爆は、こうした地域の記憶も一瞬にして破壊、断絶したことを想像させる重要な写真だ」と指摘する。

 ◆浦上天主堂=パリ外国宣教会のフレノー神父が設計し、1895年(明治28年)に着工。信徒らの勤労奉仕などによって赤レンガを積み上げて造られた。2階建てで、高さ26メートルの双塔など「東洋一」と呼ばれた壮大さを誇っていた。1945年の長崎原爆では爆心地から約500メートルにあり、壁を残して倒壊。現在の天主堂は59年に再建された。

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