1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

九ちゃん長女の大島花子さん、命の大切さを訴え続ける…日航機墜落事故39年「いまだに向き合うことで精いっぱい」

読売新聞 / 2024年8月6日 15時30分

 1985年8月に起きた日航ジャンボ機墜落事故から、まもなく39年となる。犠牲となった乗客乗員520人の中に、「見上げてごらん夜の星を」や「上を向いて歩こう」で知られる坂本九さん(本名・大島九(ひさし)=当時43歳)がいた。父と同じ歌手となった長女の大島花子さん(50)は、名曲を受け継ぎ、命の大切さを訴え続けている。(デジタル編集部 石原宗明)

早く過ぎてほしい命日

 「いまだに8時12分のデジタル時計を見るのも嫌。1年で唯一、早く終わってほしい日」。大島さんは命日を迎える心境をそう話した。

 8月12日当日は、母の柏木由紀子さん(76)や妹の舞坂ゆき子さん(47)一家と墓参りをした後、皆でできるだけ楽しく食事をしている。さみしさを感じなくてすむようにしており、「楽しく笑って、一日が終わっていたというのがベストの過ごし方」という。

 1985年の事故当日のことは脳裏に焼き付いている。テレビ画面に飛行機が行方不明になったとのテロップが流れた。「父が乗っていた飛行機かもしれない」と、母に伝えた。自宅に報道陣が押し寄せ、妹と知人の家に預けられた。

 家を明るくする太陽のような存在で、一緒にいるととびきり楽しい父。仕事で家にいない時間も多かったが、「おはよう」や「いってらっしゃい」などのメモ書きを置いていってくれたり、電話をこまめにしてくれたり、いつも家族を気にかけてくれていた。

 数日後、その父の死を週刊誌の表紙が伝えていた。「行ってらっしゃいと見送り、出ていった父がもう帰ってこない」。現実を認めたくなくて、感覚がまひしたような状態が続き、事故から1週間後の告別式でも、涙は流せなかった。

「大島家の長男」に

 母や妹とは父のことをなるべく口にしないようにした。「思い出にしてしまうと父が過去の存在になる」。それぞれの誕生日を盛大に祝ったり、旅行の計画を立てたりするなど、父に代わって家族のまとめ役を担ってきた。周囲から「まるで長男だね」と言われるほど。「父が自分の中にいるのではないかと思うくらい、家族を守らなきゃと思っていた」と振り返る。

 生活が激変しても、父が好きだった音楽から離れることはなかった。大学進学後はミュージカルにも挑戦し、自ら作曲してライブ活動を重ねた。卒業後は派遣社員や塾講師としても働いたが、「自分には歌しかない」との思いを強くした。

 30歳を迎えた2003年12月に、メジャーデビューが決定。CDには父の名曲の中でも特に好きだった「見上げてごらん夜の星を」を収録した。

「坂本九の娘」であることが重荷に

 ただ、同じ世界に入っても、国民的歌手だった父のようにテレビで注目されるわけでもない。「坂本九の娘」を重荷に感じるようになっていった。

 「父が過ごした時代と今は違う」「私にしか歌えない歌がある」――。そう自分に言い聞かせていたが、「私は私。大島花子という人間を見てほしい」という思いから、「娘と言われるのが嫌だった」とブログにつづったこともあった。

 転機となったのは、2011年の東日本大震災だ。悲劇を懸命に乗り越えようとする被災者のニュースを見るたびに、「悲しんでも、悔やんでもいい」と伝えたいと思った。

 「私はまだまだ全然立ち直れていません」「悲しみは私の一部として一緒に生きています」――。福島県内の仮設住宅などを回り、事故後の気持ちを率直に伝えた。

 「上を向いて歩こう」を一緒に歌うと、涙を流す人もいた。「たくさん泣くことができてすっきりした」「私も前を向いて生きていく」などと声をかけられた。

 大切な人を突然失っても、幸せに暮らせる未来がある――。被災地でライブを重ねる中で、自分自身が歌うことを通じて、そう示すことができると思えるようになった。

グリーフケアから学ぶ

 被災者への支援を続ける中で、悲しみの中にある人に寄り添う「グリーフケア(悲嘆ケア)」という取り組みを知った。

 蓋をしてきた悲しみにしっかり向き合えるのか――。恐怖すら感じたが、ファシリテーター(進行役)の講座を受けることにした。

 同じ体験をした者同士で話し合ったり、芸術作品を作ったり……。悲しみへの向き合い方には様々な形があることを知った。泣かないことで自分自身を支えてきたが、それもグリーフケアの一つと知り、気持ちが楽になった。歌手として、これまで伝えてきた「無理に克服しなくていい」というメッセージも大切だと改めてわかった。

 心に少し余裕ができて、家族と一緒に19年夏に墜落現場となった「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)に登ることにした。

 事故から20年となる05年に最初に登ったときは、当時のテレビ映像などが思い出され、父の墓標さえ直視できなかった。「事故が現実だったことを知らされる場所」であり、その後もなかなか近付けないでいた。

 家族と一緒に訪れた登山では、父の墓標だけでなく、他の遺族の思いも感じ、事故から30年以上が経過しても登山道などが整備されていることに感謝することができた。

 「悲しみを受け入れながら、手をつなぎ、日常を慈しむ。誰かの傷ついた心に希望を手渡しできるように生きていく」。そう誓った。

「歌を届けなければ」

 歌手として歩み続けて20年。現在、全国各地で開催している周年コンサートでは、父と過ごした思い出を往年の名曲とともに伝えている。

 「坂本九は手話が好きで、私も小さい頃に教えてもらっていた」「耳の聞こえない人がいても、音楽は少し工夫すればみんなで楽しめるんだよ、と言っていた」。父の姿を思い出し、来場者に簡単な手話を教え、「夕焼け小焼け」を一緒に歌ってもいる。

 今年1月の能登半島地震を受け、コンサート終了後には、被災地への義援金となるバッグなどのグッズ販売も始めた。今秋には石川県内を訪れ、被災者に直接歌を届ける。

 いまは、歌を聴いている来場者の様子から、自分自身の歌を楽しんでくれている手応えを感じることができるようになった。「必要としてくれている人のところに行き、歌を届けなければいけないと思っている」

父の墓前で自分に向き合う

 忙しい日々の合間に、数か月に1度は父の墓に足を運ぶ。人を楽しませるのが好きだった父なら、どんなコンサートにしているかな――。墓前で悩みを打ち明けるうちに、自分が本当に思っていること、やりたいと考えていることに気付くことができる。「うそをつくことができない“鏡”のような場所」という。

 事故から39年となり、風化を懸念する声もある。「私はいまだに事故に向き合うことで精いっぱいで、再発防止を訴えるなどの問題提起をする側に移れてはいない。ただ、空の安全を守るのは当然だし、何よりも命を大事にする社会であってほしい、と言い続けていきたい」

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください