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フェンシング団体フルーレ金の松山恭助、背中を追い続けた兄と「競い合って」世界に羽ばたく

読売新聞 / 2024年8月5日 22時6分

フェンシング男子フルーレ団体決勝でイタリアの選手からポイントを奪い、ガッツポーズで喜ぶ松山恭助選手(4日、パリで)=松本拓也撮影

 パリ五輪のフェンシングは、4日に行われた男子フルーレ団体決勝で、日本(松山恭助=JTB、飯村一輝=慶大、敷根崇裕=ネクサス、永野雄大=同)はイタリアに45―36で快勝、金メダルを獲得した。

 表彰式が終わると、観客席に向かって駆けだした。家族らの前で金メダルを掲げた。その先にいたのはお手本で、ライバルで、戦友だった兄。フェンシング男子フルーレ団体の松山恭助選手(27)は、その背中を追い、世界に羽ばたいた。

 放課後の校庭や公園。兄の大助さん(29)が行くところには、どこへでもついて行った。兄が6歳の時、地元の東京都のスポーツ少年団で競技を始めると、一緒に剣を握った。

 技術は兄のまねをして身につけた。自宅の廊下で一緒にステップや突きの練習を繰り返した。「支え、競い合って力を磨いた。けんかをしたことはほとんどない。自分で言うのも変だけど、兄弟仲はすごくいい」と大助さんは笑う。

 コーチが同行できない時は、試合に出ない方がコーチ席に陣取り、戦い方を指示。互いに小学校や中学校の全国大会で優勝や3位の好成績を収め、「松山兄弟」の名は知れ渡った。

 先輩にいじめられそうになれば、兄が盾となって守ってくれた。東亜学園高(東京)、早稲田大と進路も同じ。兄が切り開いてくれた道を歩み続け、「僕は兄の後ろにいて、伸び伸びと競技に打ち込めた」。

 高校に進むと、兄が嫉妬するほど強くなる。2008年北京五輪で、日本人初のメダリストになった太田雄貴さん(38)以来の高校総体3連覇を果たす。いつしか兄を追い越していった。

 その太田さんから日本代表の主将を継承したのは、19歳の時。重圧は感じていないつもりだったが、歯車が狂う。「主将は一番強くあるべきだ」。そんな思いが自分を苦しめた。

 世界選手権など国際大会で仲間がメダルを手にする中、結果が出ない。右肩上がりで実力を伸ばしてきて初めての挫折だった。兄に言われた。「メダルだけが人生の全てじゃないよ」

 コロナ禍で練習ができない時は、競技の一線を退いて会社員になった兄が付き合ってくれた。一緒に隅田川の河川敷を走り、自宅の屋上で剣を合わせた。

 23年の世界選手権で3位になり、トップ選手に肩を並べた。「ここまで来られたのは、 切磋琢磨 せっさたくましてきた兄のお陰」と感謝する。

 今大会の個人戦は3回戦で敗退。団体戦も他の種目が全てメダルを獲得し、重圧があった。「苦しい時に支えてくれた家族に感謝の気持ちでいっぱいです」

 表彰式の後、金メダルを触らせてもらった大助さんは、「おめでとう」と言葉をかけた。苦境を乗り越え、夢をつかんだ弟が見せたのは、心からの笑顔だった。(蛭川裕太)

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