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「第五福竜丸」船員ら取材の92歳、自身は長崎で被爆…「核なき世界」実現へペンの力で伝える

読売新聞 / 2024年8月7日 18時30分

 米国の水爆実験で船員らが 被曝 ひばくした70年前の第五福竜丸事件は原爆の被害を思い起こさせ、被爆者運動が本格化するきっかけになった。長崎は9日、79回目の追悼の日を迎える。記者として船員らを取材した被爆者の男性(92)が当時を振り返り、「核なき世界」の実現への思いを語った。(長崎支局 勢島康士朗)

「死の灰」

 男性は、長崎で被爆した東京都杉並区の吉田 一人 かずとさん。1952年4月までの米軍の占領下では、原爆に関する情報は統制され、差別を恐れる被爆者も人前で自身の体験を語ることはほとんどなかった。

 「だから、被ばく者から核兵器のもたらす被害を詳しく聞いたのは、その日が初めてだった」。吉田さんは7月中旬、自宅で70年前の出来事を振り返った。

 通信社の記者だった54年春、第五福竜丸の男性船員が入院する東大病院で合同取材に臨んだ。「全部がピカッと光った」。頬から額にかけて赤くただれた男性は、記者たちに「死の灰」を浴びた時の様子を証言した。あの日の記憶が重なり合った吉田さんは、必死にペンを走らせた。

 被爆したのは13歳の時。爆心地から3・5キロにある下宿先の前で同級生と立ち話をしていた。突然、目の前が白くなり、爆風で10メートルほど飛ばされた。大きなけがはなく、翌朝、実家に戻るため、長崎駅に向かった。やけどで全身に木の葉や新聞紙が付着したままの人や、腕の皮膚を垂らした人がさまよっていた。

上がり始めた声

 事件を受け、杉並区の主婦らが原水爆禁止を求める署名活動を始めた。吉田さんは主婦らの活動拠点の公民館に何度も足を運び、署名が届く様子を取材した。集まった署名は3000万筆以上。「核兵器への怒りが加速度的に広がることに圧倒された」と思い返す。

 口をつぐんでいた被爆者も声を上げ始め、55年に初の原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。翌年には第2回大会が長崎で行われ、被爆者による全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(被団協)が結成された。

運動に参加

 「生き残った私には、亡くなった被爆者と後の世代に対する責務がある」。吉田さんは運動に身を投じ、被団協が84年に発表した「原爆被害者の基本要求」では、策定に向けた検討委員会の副委員長を務めた。

 原爆投下から79年。被爆者の高齢化と減少が進み、被爆者健康手帳を持つ人は11万人を割り、平均年齢は85歳を超える。

 年齢もあり、吉田さんは運動の一線から退いた。ただ、かつて編集責任者だった「被団協新聞」の制作に助言するなど、できる活動を行っている。「被爆者が何を言い続けてきたのか。目を向け、耳を傾けてほしい。それが核の脅威を乗り越え、『核なき世界』の実現につながる」と訴える。

◆第五福竜丸事件=1954年3月1日、太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で、操業中だった静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝(ひばく)。23人が高放射能の「死の灰」を浴び、1人が半年後に死亡した。広島に投下された原爆の約1000倍の威力だったとされる。

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