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世界陸上ゴール寸前「あと1周あるんです!」、競歩・山崎勇喜に降りかかった悲劇…誘導ミスでの「棄権」飛躍の転機に

読売新聞 / 2024年8月13日 10時30分

 スタジアムの入り口に赤と白のユニホームが見えた。2007年9月1日の世界陸上大阪大会。男子50キロ競歩のゴール地点となる長居陸上競技場に、日本記録保持者の山崎勇喜さん(40)=当時23歳=が入ってきた。

 日本人トップで、全体では5番目。8位以内なら翌年の北京五輪出場が決まる。炎天下の4時間近いレースを戦い、ふらつく足取りで懸命にゴールに向かう姿にスタンドから大きな拍手がわいた。

 だがこの時、テレビではアナウンサーが絶叫していた。「なんということだ! 山崎はあと1周あるんです」。係員が周回数を間違って、ゴールに誘導されたのだ。結局、山崎さんは周回不足で「途中棄権」扱いに終わった。

 前代未聞の運営ミス。しかし、これが日本の競歩の新しい一歩につながる。(大阪社会部 森安徹)

日本勢トップなら北京五輪切符

 パン――。スターターピストルの音が青空に響いた。

 2007年9月1日、世界陸上大阪大会の男子50キロ競歩。日本のエース・山崎勇喜さん(40)=当時23歳=は、序盤から積極的に飛ばした。

 前年に3時間43分38秒の日本記録を樹立したばかり。持ちタイムを考えれば日本人初のメダルも夢ではない。入賞でも、日本勢トップなら翌年の北京五輪出場が内定する。

 競歩選手の歩行速度は時速14~16キロに達する。その自転車並みのスピードで、山崎さんは外国選手2人とトップ争いを繰り広げた。

 50キロ競歩は、マラソンと違い、距離の短い周回コースで行う。この大会では長居陸上競技場(現・ヤンマースタジアム長居)をスタートし、場外の道路に設けた2キロのコースを23周した後、スタジアムに戻ってゴールとなる。

 25キロの通過タイムは1時間53分。腕の時計をちらりと見た。疲れが来るのが思ったより早い。午前7時のスタートの後、日差しが強まり、気温も上がってきた。

 次第に足が重くなり、歩行のリズムが乱れた。35キロを過ぎて4位、5位へと順位を下げた。「まだ行けるぞ」との沿道の声に、動かぬ足にペットボトルの水をかけたが、息を吸っても酸素が体に入る感じがない。終盤になると意識も 朦朧 もうろうとしてきた。

係員の合図に一瞬「違和感」、ただ反射的に

 スタジアム前で係員3人がぐるぐる腕を回すのが見えたのは、その時だ。規定の周回を終えた合図だった。

 「ん?」。実は一瞬、違和感があった。周回がまだ少ない気がしたのだ。しかし、体は反射的に進路を変えた。

 ミスに気づいた係員は、慌てて後を追いかけた。テレビでアナウンサーが絶叫したのは、この直後だ。

 「なんということだ! 山崎はあと1周あるんです」

 大会組織委員会の運営責任者だった桜井孝次さん(88)は、あの時、競技場の一室で聞いたテレビからの声を痛恨の念で思い出す。

 全力を尽くし、レース後に担架で運ばれた山崎さんは、誘導ミスで「途中棄権」となり、五輪内定を逃した。桜井さんは謝罪の記者会見を開いたが、もちろん結果は覆らない。

 「大失態」「消えた五輪切符」。厳しい見出しが躍る翌日のスポーツ紙は今も自宅に保管している。選手の人生は、時に1回の大会結果に左右される。だから運営は厳格でなければならず、「何があってもやり直せないんです」。

 原因は、周回数の二重カウントだった。記録員は、別の係員が読み上げるゼッケン番号の下2桁を聞いて周回数を数える。しかし、その日は沿道の声が交錯したのか、記録員は山崎さんを示す「11番」を1回多く聞いていた。

 コース設定にも遠因があった。競歩は通常、公道などを利用した周回コースだけで行う。だが、世界陸上は演出として競技場にゴールを設けた。そのため最後の誘導が必要で、そこでミスが起きた。

 「現場の責任ではなく、私の責任だ」。桜井さんは山崎さんに面会して、謝罪文を手渡した。 叱責 しっせきでも罵声でも受ける覚悟だったが、山崎さんは黙って聞くだけだった。そして、メディアの前でも運営を批判せず「悔しいが、いい経験だった」と語った。

忸怩たる思い、世界との力の差痛感

 「胸が痛みました」「競歩があんなに過酷とは」。山崎さんのもとには、大会での健闘と、潔い態度をたたえる手紙が何十通も届いた。

 もっとも、本人は 忸怩 じくじたる思いだった。「疑問を感じながら誘導に従った。それは世界との力の差を見せつけられ、入賞圏にとどまるうちに早くゴールしたいという思いがよぎったからなんです」

 それまでの競技生活は順調すぎるほどだった。

 競歩との出会いは富山商業高校1年の時だ。陸上部の監督に、長距離選手として見切りをつけられ、「競歩かマネジャーに」と迫られての選択だったが、わずか1か月後の県大会で優勝に輝いた。

 天性の素質があった。競歩には「歩型」というルールがある。〈1〉両足が同時に地面から離れてはならない〈2〉前脚は接地から垂直の位置になるまで、まっすぐに伸ばす――。この条件で速度を出すには独特の体の使い方が必要だ。山崎さんは、先天的な股関節の柔らかさを生かしたフォームでストライドが大きい。

 指導者にも恵まれた。北陸には「日本競歩のパイオニア」とされる斎藤和夫さんがいた。朗らかな人柄で褒め上手。「お前は天才だ」「五輪でメダルを取れる」と目をかけられ、競歩の面白さに目覚めた。02年の日本選手権では高校生として初めて男子20キロを制覇。04年には20歳でアテネ五輪にも出場した。

 だが、世界陸上大阪大会は転機の中で迎えた大会だった。その前年、ともに北京五輪を目指していた斎藤さんが63歳で急逝したのだ。

 そして日本陸上競技連盟の 斡旋 あっせんで新コーチに就任したのが鈴木 従道 つぐみちさん(78)だった。

 陸上の花形・女子マラソンの元指導者で、世界陸上優勝の浅利純子さんらを育てた名伯楽。ただし、山崎さんとの相性は「最悪」だった。

 鈴木さんに言わせると、山崎さんの第一印象は「バカ」。マイナー種目ゆえか、選手の自覚が足りず、食生活にも無頓着。持久力を鍛えようと米国での高地合宿に誘っても、厳しい練習を嫌がり2度目は断る始末で、しかも実績があるだけに聞く耳を持たない。

 一方、斎藤さんを慕っていた山崎さんからすれば、鈴木さんは「とんでもない人」だった。歩型指導は別のコーチ任せで、マラソン仕込みの猛練習ばかり。競歩の繊細さを理解していないと反発した。

 その2人がかみ合わない結果が、大阪大会だった。

「山崎は変わった」、奪い返した「五輪」

 五輪内定を逃し、「斎藤さんの墓前に良い報告を」との願いを果たせなかった山崎さんは、自分を見つめ直した。

 「コーチには、僕に足りないものが、僕以上に見えている」。覚悟を決めて、鈴木さんの故郷の栃木県にある羽黒山(標高458メートル)のふもとに2人で練習拠点を構えた。急勾配の山道で筋力と心肺機能を鍛え、かつて拒んだ米国合宿にも参加した。

 「山崎は変わった」。そう認めた鈴木さんは、手ずからの料理で栄養を管理。血液検査で疲労度を見極め、コンディションを整えさせた。

 そしてあの大会から半年後、08年4月の日本選手権で山崎さんは復活を遂げた。2年ぶりに自身の日本記録を更新し、大阪でつかみ損ねた北京五輪の出場権を勝ち取った。さらに8月の五輪本番は男子50キロで7位となり、日本選手として五輪初の入賞を果たした。

 鈴木さんの手元には、レース後にがっちり握手する2人の写真が残る。

日本競歩界にも収穫、メダリスト続々と

 山崎さんの入賞は、コーチを斡旋した日本陸連にとっても大きな収穫だった。元陸連強化委員長の沢木啓祐さん(80)によると、鈴木さんに託したのは、「マラソンなどでアフリカ勢が台頭する中で『競歩を世界で戦える種目に』との狙いがあった」からで、2人がその期待に応えた。

 日本の競歩は、その後の選手たちが世界陸上と五輪で計12個のメダルを獲得しており、沢木さんは「2人がトレーニング法を確立し、それが浸透したことが大きい」と語る。

 競歩のイメージも変わった。

 18年アジア大会の男子50キロで金メダルを獲得した勝木隼人さん(33)は、大学2年で長距離から転向した当初、「競歩は格好悪い」という思いがあった。それが大阪大会の山崎さんの映像を見て一変した。「世界を相手に限界まで戦う気迫に憧れた。あれが競歩というスポーツなんだと思わなければ、やめていたかもしれません」

 誰より喜んだのは、大阪大会の運営責任者だった桜井さんかもしれない。「誘導ミスを引きずらず、次につなげた。その彼の足跡が今の競歩につながっている。それは私にとってうれしいことだよね」

 山崎さんは今は引退し、選手時代に自衛隊体育学校に所属した縁で、茨城県の陸上自衛隊土浦駐屯地にある武器学校の体育教官を務めている。

 世界陸上や五輪のメダルには届かなかったが、今も市民マラソンのゲストや、陸上教室の講師に招かれるのは「あの山崎」だからだ。

 20年余りの現役生活で、鈴木さんとの師弟関係は5年と長くはない。鈴木さんが大学の指導者に招かれたからだが、相性の悪さも一因だった。

 それでも今はこう考える。

 「一人の選手と向き合うには、すごい熱意と覚悟が必要で、鈴木さんは口は悪いけど、それがあった」。ひょんなことから始めた競歩で、自分がこれほど輝けたのは、2人の対照的な指導者に導かれたからだと。

 7月、武器学校では、山崎さんが企画した駅伝大会が開かれていた。本格的に指導者を目指すかは決めていないと言いつつも、グラウンドに目をやり、走る教え子たちをまぶしそうに見つめる。

 「やっぱり陸上に関わっている時が『生きてる』って感じるんですよね」

もりやす・とおる 2011年入社。神戸総局などを経て大阪社会部。スポーツに関心があり、サッカー・ワールドカップの取材も経験した。世界陸上大阪大会は学生時代にテレビで見て、競歩の衝撃の結末を覚えている。36歳。

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