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中学生力士の取組は年に9番、つらい日々もじっとこらえて「出世した姿を見せるんだ」…元大関琴風の「演歌と土俵」

読売新聞 / 2024年8月13日 9時54分

九州場所途中で帰京した中学生時代の中山浩一さん(1971年11月21日撮影)

 元大関琴風の中山浩一さん(67)(元尾車親方、津市出身)が、中学2年生の14歳で佐渡ヶ嶽部屋に入門した1971年は、日本相撲協会が「中学生力士の採用禁止」を決めた年でもあった。初土俵から4か月後の11月、九州場所のまっ最中に、約70人いた中学生力士たちは「勉強に励め」と帰京させられた。(三木修司)

「年間3分の2以上の出席」満たせず、社会問題に

 当時、中学生力士の出席日数不足は社会問題となっていた。大阪(3月)、名古屋(7月)、福岡(11月)と年3回の地方場所があり、中学生は1場所ごとに1か月は学校を休んでいた。法律で定められた「年間3分の2以上の出席」を満たせず、相撲社会の責任が問われていた。

中学生力士の採用禁止

 相撲協会は1971年11月、義務教育を終えていない力士の入門を禁じた。現在の規則では、「義務教育を終了した23歳未満(新弟子検査日)の男子で、師匠を経て、協会に親権者の承諾書、志願者本人の意思確認書(中略)を添えて力士検査届を提出」とある。

1年を 9日で暮らす 中学生

 71年11月18日付の読売新聞朝刊は「長欠“金の卵力士” 義務教育をうっちゃり 文部省大あわてで協議」などと社会面で大きく報じている。一昔前、集団就職で上野駅などに上京した若者が「金の卵」と呼ばれたことにちなんだ見出しだった。

 中山さんは、他の中学生力士と一緒に、福岡から東京への夜汽車に乗った。「その頃は勝ち負けにそれほど執着もなかったし、大変な仕事や兄弟子の雑用から解放されるうれしさもあった」という。

 既に入門していた中学生は以降、年3回行われる東京場所の日曜にあたる初日・中日・千秋楽の計3日間のみ出場し、地方場所は不参加となった。72年は1年で9番しか取らなかった。

1年を 9日で暮らす 中学生

 中山さんは取材の際、江戸時代の有名な川柳を引き合いに出し、「今でこそ詠める句だ」と笑った。

「お釣りは100円玉5枚」…中華料理店主の愛情

 佐渡ヶ嶽部屋は当時、東京・江東区の新大橋にあった。中山さんは兄弟子の使いで、よく近所のすし屋に買い出しに行かされた。

 注文はいつも「くずちらし」。すしネタにならない切れ端をすし飯にのせた相撲部屋御用達のサービス品で、並ちらしが700円前後の時代に150円。自分の分はなかった。すしができるのを待つ間に、店の少年と仲良くなった。一つ上の15歳で、いがぐり頭、色白の「かわいらしい感じの子」。宮城から上京したという。お互い口数は少なかったが、「俺らもいつか、カウンターですしを食おうな」と励まし合った。

 中華料理店の店主にも救われた。千秋楽が終わると、なけなしの手当を握って食べに行った。チャーハンが130円、ラーメンは100円、八宝菜や酢豚はご飯セットで各350円。チャーハンとラーメンを頼んだが、店主が「お客に作った余りだ」と、酢豚も出してくれた。レジで店主の妻に500円札を渡すと、100円玉で5枚、お釣りをくれた。驚いたが、「いいんだよ。頑張りな」と笑顔を向けられた。

 親方や兄弟子の「指導」に我慢の限界を感じ、何度も相撲部屋を逃げ出そうと考えた。そんな時、店の夫婦を思い出した。「おじちゃん、おばちゃんにいつか、出世した姿を見せるんだ」

歌にまで注文をつけられるのか

 娯楽の少ない相撲部屋で、よく歌を口ずさんだ。ある時、香川県出身の尾車親方(元大関琴ヶ浜)から「おい、『あゝ上野駅』と『南国土佐』が歌えりゃいいんだ! 今どきの歌なんぞ覚えんでいいぞ」と言われた。歌にまで注文をつけられるのか、と思いつつ……。

 ♪くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった(あゝ上野駅)

琴風豪規

 ことかぜ・こうき 元大関。1957年、津市栄町生まれ。71年3月、14歳で元横綱琴桜(当時大関)に弟子入りし、同年7月、佐渡ヶ嶽部屋から初土俵。東京・江東区立深川二中卒。幕内優勝2度。三賞は殊勲3度、敢闘2度、技能1度。平幕が横綱を倒す金星は6個獲得。

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