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敵機聞き分け訓練重ねたが空襲で友を失った視覚障害の男性「何もできなかった」…真に助け合える社会願う

読売新聞 / 2024年8月13日 15時31分

戦争当時の体験を語る白畠さん。飛行音の記憶が今も残る(7月31日、京都市右京区で)=川崎公太撮影

 戦時下で障害者はどう生きたのか。視覚障害のある男性は、戦闘機の飛行音を聞き分ける訓練を重ねたが、空襲で友人を失ったことへのむなしさを今も抱える。まもなく迎える79回目の終戦の日。助け合える社会の実現を願う。(南暁子)

 「戦闘機のグラマンやカーチスは『クーン』という割に軽い音。爆撃機のB24は『ゴーッ』と重々しい音だった」。京都市右京区の白畠 いさおさん(88)は、日本上空を行き交った米機の飛行音を今も覚えている。

 7歳の頃に自転車の事故で左目を失明した。右目の視力も低下し、8歳だった1944年に京都府立盲学校(京都市)に入学した。

 授業では、陸軍が監修したレコード「敵機爆音集」を繰り返し聞かされた。機種別に、高度ごとの音が収録され、聞こえ方の違いが解説されている。「これを覚えておき、お国の役に立てたり、自分の身を守るために役立てたりしてください」。先生は言った。

 日本盲教育史研究会の岸博実さん(75)は「戦局の悪化で兵士が不足する中、敵機の襲来をいち早く感知する『防空監視』要員として動員する狙いがあった可能性がある」と指摘する。石川県で実際に視覚障害者が防空監視に従事した例があったという。

 岸さんは「徴兵を免除される障害者は、『ごくつぶし』『役立たず』などと差別の対象にされがちだった。自分たちにできる形で国に奉仕しようと懸命だったのだろう」と話す。

 白畠さんは45年3月、寄宿舎から京都府宮津市の実家に戻った。7月30日。友人と一緒に裏山でセミ捕りをしていた。レコードで聞き慣れたグラマンの音が近づいてくるのに気付いた。防空 ごうへ逃げ込んだが、爆弾の破片が壕内にも飛び込んできて友人を直撃した。即死だった。「飛行音を聞き分けられたところで、何もできはしなかった」

 14歳で右目も失明。盲学校を卒業後、同校の教員として約30年間、 鍼灸 しんきゅうを教えた。定年退職後は東邦大で鍼灸の研究を深め、64歳で医学博士号を取得した。

 必死に生きてきたからこそ思う。「戦争は最悪の経験だった。戦争をすることに何の理屈も通じない」。そして、こう問いかけた。「今は、障害者のための制度やサービスが整った一方で、よそよそしさを感じる。本当に助け合える社会になっているのだろうか」

集団疎開から取り残される事態も

 戦時下では、障害のある子が学童集団疎開から取り残される事態も起きた。

 旧東京市は1932年、独自に、全国初となる肢体不自由児のための 光明 こうめい学校(現・東京都立光明学園、世田谷区)を設立。脳性まひやポリオの子らを受け入れた。

 戦禍の拡大に伴い、44年6月、学童疎開が閣議決定され、都市部の児童40万人以上が地方へ移された。光明学園の元教諭で、子どもと戦争をテーマに研究する渡辺美佐子さん(79)によると、同校も自治体に疎開の手配を求めたが、「手に負えない」と取り合ってもらえなかった。

 同校の校長はやむなく、校舎に児童を集める「現地疎開」を選択し、校庭に防空 ごうを掘った。だが、45年3月10日の東京大空襲を受けて「ここも安全ではない」と判断し、自ら疎開先探しに奔走。5月15日、長野県へ移った。その10日後、校舎は空襲に遭い、大半が焼け落ちた。間一髪だった。

 渡辺さんは「国や自治体は弱い立場の人を優先的に保護しないといけないはずが、当時の日本では逆になっていた」と話す。

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