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学徒動員で工場勤務、空襲警報に死にものぐるいで走り生き残る…大勢の同級生犠牲に「申し訳ない」

読売新聞 / 2024年8月14日 17時9分

児童らに空襲の経験を話す須釜さん(6月14日、棚倉町で)

 太平洋戦争の終結から79年。戦後生まれが国民の9割になろうとしている。「二度と繰り返してはならない」。幼い頃に戦時下を生き抜いた人たちが、戦争を知らない世代へと平和への思いを紡ぐ。

 「郡山で大きな空襲がありました。想像がつきますか」

 6月14日、福島県白河市の須釜千代さん(94)が、棚倉町立図書館に集まった町立近津小の6年生約15人に静かに語りかけた。

 太平洋戦争末期、須釜さんは白河高等女学校(現・県立白河旭高校)に通った。1、2年生の頃は兵隊の慰問袋を作ったり、農作業を手伝ったりした。毎日持参した弁当は、初めの頃は白米、カボチャやサツマイモの煮物とぎっしり詰まっていたのに、戦況が厳しくなるにつれてサツマイモだけになった。

 3年生になると、学徒動員で郡山市の軍需工場・保土谷化学工業郡山工場に配属された。作業員の衣服の洗濯や工場内の消毒が仕事だった。工場近くの寮で生活し、火鉢を同級生らと囲んで合唱するのが唯一の楽しみだった。

 1945年4月12日は、きれいに晴れた日だった。午前の業務を終えてふと空を見上げると、向こうの空に戦闘機が飛んでいるのが見えた。その途端に鳴り響く空襲警報。戦闘機から機銃掃射が始まった。

 工場から500メートルほど先にある田んぼの中に造られた防空 ごうに死にものぐるいで走った。壕の中にはすでに20人くらいの生徒らが避難していた。「ドーン、ドーン」。すさまじい音をたてて爆弾が次々に落とされた。壕が揺れ、入り口の土がザザーっと落ちる度、怖くてたまらなかった。

 どれくらいの時間がたったのだろうか。機銃と爆弾の音が聞こえなくなってから壕を出て近くの河原へと逃げた。間もなく知ったのは、大勢の同級生らが即死したり、足を吹き飛ばされたりしたということだった。「同じ場所にいたのに私は生き残ってしまった。亡くなった同級生に本当に申し訳ない」。胸が押しつぶされそうだった。

 この日の空襲で、郡山市内で犠牲になったのは460人。うち14人は白河高等女学校の生徒だった。同市ではその後も空襲が相次ぎ、7月29日には原爆投下の実験として模擬爆弾が投下され、39人が犠牲となった。

 8月15日の玉音放送は、自宅の縁側で聞いた。「学校で勉強もせずに一生懸命に働いたのは何のためだったのか」。全身から力が抜けた。

 終戦後、千葉県市川市にある短大に通い、福島に戻って中学校の家庭科教員として定年まで働いた。29歳の頃に結婚し、息子1人をもうけ、現在は孫1人とひ孫2人がいる。

 毎年4月12日には、郡山市の如宝寺で行われる慰霊祭に参加している。高齢になり、同級生たちの参加は年々少なくなっている。今年は3人だった。それでも「『ごめんなさい。ありがとう。私たちは元気でいます』と彼女らをしのびたい」と、自分の体が動く限り参加しようと思っている。

 須釜さんは、自身の経験を通じて戦争は尊い命を一瞬にして奪ってしまうこと、平和を守ることが何よりも大事だということを伝えたいと講話を引き受けた。講話の最後、児童たちに伝えた。「こうやって皆さんの前でお話できる人が減っていますが、絶対に忘れてはならない出来事です。79年前の悲惨な戦争体験を少しでも分かってもらった上で生活をしてほしい」

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