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日本三大怨霊「崇徳上皇」ゆかりの地…四国唯一の天皇陵「白峯陵」、西行法師の道

読売新聞 / 2024年8月30日 12時0分

青海神社の参道入り口。右奥にあるのが「西行法師の道」のスタート地点の石柱

 日本三大怨霊という言葉をご存じか。世の中に恨みを抱いて亡くなった菅原道真、平将門、 崇徳 (すとく)上皇の三人を指す。今回は、都への帰還という望みかなわず、45歳で崩御した崇徳上皇ゆかりの地を訪ねてみた。四国に唯一ある天皇陵が崇徳上皇の「 白峯陵 (しらみねのみささぎ)」である。

 京都御所の近く、かつては貴族の邸宅が並んでいた一角に白峯神宮がある。祭神として崇徳上皇、 淳仁 (じゅんにん)天皇という悲劇的な最期を迎えた二柱を祭っている。この場所は和歌や () (まり)の宗家であった貴族「 飛鳥井 (あすかい)家」の邸宅があったため、野球やサッカーなどの球技を中心としたスポーツの神様を祭った摂社も境内にある。摂社とは、神社本体とは別にある小規模な神社のことで、系譜的に連なる神や神社本体が遷座する前からの当地の地主神を祭っている。

700年ぶりに願いがかなった帰京

 境内を巡ると、摂社と摂社の間に、小倉百人一首にある崇徳上皇の和歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の われても末に あはむとぞ思う」を刻んだ石碑があった。

 明治天皇の父親である孝明天皇は幕末の動乱を憂い、都を離れた地に祭られている崇徳上皇の霊を慰めようと徳川幕府に神霊を移すことを命じたが、孝明天皇の崩御で中断。明治天皇が引き継いで創建した。崇徳上皇にとって約700年ぶりの帰京であった。

 崇徳上皇は1119年、鳥羽天皇の第1皇子として誕生した。母は藤原氏出身の 待賢門 (たいけんもん) (いん) 璋子 (しょうし)で、のちの後白河法皇は同母弟にあたる。数え5歳(満3歳)の1123年に、父親の鳥羽天皇の譲位により即位するが、鳥羽上皇に異母弟の皇子が誕生したことで、人生の歯車は狂い出す。即位後18年で、異母弟の母親を溺愛していた鳥羽上皇に退位を強要され、代わって異母弟の近衛天皇が即位したのだ。

実権のない上皇、和歌に没頭へ

 この時の譲位の 宣命 (せんみょう)(即位の時などに和文体で書かれた文書)は、位を皇太弟に譲ると記されていた。形式上とはいえ崇徳天皇の養子となっていた近衛天皇なので、皇太子に譲るとなるはずだった。院政(上皇などが天皇に代わって政治を行うこと)は、天皇の父親であればこそできるのであって、天皇の兄では院政を行うことができない。鳥羽上皇により政治から遠ざけられたのだった。

 鎌倉時代の説話集「古事談」には、崇徳上皇(これ以降は上皇に名称を統一する)は、祖父の白河法皇と待賢門院璋子の密通により生まれた子で、鳥羽天皇に「叔父子」と呼ばれて嫌われていたという記述があり、鳥羽上皇による冷遇の理由ともされている。

 この後、天皇在位中から熱心であった和歌に、譲位後はさらに没頭していくことになる。天皇や上皇の命による 勅撰 (ちょくせん)和歌集「詞花和歌集」は、崇徳上皇の命によるもので、1151年前後に成立している。

 そして天皇家、摂関家の藤原氏内部などの政争が絡まり、源平の戦いにつながる保元の乱が起き、敗れた崇徳上皇は讃岐(香川県)に配流されることになる。都へ帰ることを願いながら、1164年に現地で崩御した。

都で不幸が相次ぎ、上皇の祟りと流布

 崇徳上皇が怨霊として意識されるようになったのは1176年以降のことで、讃岐への追放に関わった後白河法皇や関白の藤原 忠通 (ただみち)の周囲で関係者が次々と亡くなったことや都の大火、 鹿ヶ谷 (ししがたに)の陰謀などの事件が相次いだ。崩御の時、流刑の罪人として扱われて朝廷による葬礼は行われず、冷たい仕打ちを受けていた崇徳上皇の (たた)りが流布されるようになった。のちに後白河法皇も後悔し、院号が「(場所を示すだけの)讃岐院」から「崇徳院」に改められた。

 崇徳上皇が流された地、香川県 坂出 (さかいで)市にゆかりの場所が点在する。 青海 (おうみ)神社は、 荼毘 (だび)(火葬)に付された崇徳上皇の煙がとどまった場所とされ、別名「煙の宮」とも呼ばれている。ここは、崇徳上皇の御陵「白峯陵」へつながる参道のスタート地点となっている。

和歌を通じて親交の西行法師、御陵を訪問

 「白峯陵」は白峰(峯)山(標高377メートル)の中腹にあって、参道「西行法師の道」は長さ約1・3キロ、断続的に続く830段の石段をのぼりながら崇徳上皇や西行法師が詠んだ歌を刻んだ碑88基、石灯籠93基をめぐっていく。ちなみに、崇徳上皇ゆかりの地に白峯がつくのは、御陵のある白峰山から由来している。参道の途中、眼下に街道の家並みを見下ろすことができる場所で休んだところ、西行の歌集「山家集」の有名な和歌「願わくは 花の下にて春死なん その 如月 (きさらぎ)(旧暦の2月)の望月の頃」が刻まれた歌碑が目に付いた。

 西行法師、俗名は佐藤 義清 (のりきよ)(他の名前も伝わる)といい、鳥羽上皇を警護する北面の武士だった時期があり、崇徳上皇とも和歌を通じて親交があった。崇徳上皇の崩御後の1167年(次の年という説もある)に四国を旅して白峯陵に詣でている。

 江戸時代に書かれた上田秋成の怪異物語集「雨月物語」の一編「白峯」では、西行が魔王さながらの形相をした崇徳上皇と対面する場面が描かれている。

坂出市内のゆかりの地…白峯寺、八十場の清水

 白峯陵の隣には、四国霊場第八十一番札所の 白峯 (しろみね) ()があり、その一角に崇徳上皇の 菩提 (ぼだい)を弔う 頓証寺 (とんしょうじ)殿が立つ。江戸時代に高松藩主が再建した拝殿の前庭には、京都御所に (なら)い、桜と橘が植えてある。拝殿の脇には、白峯御陵の遥拝所があり、鎌倉時代の石灯籠が立つ。西行法師が崇徳上皇と対面したのは、この遥拝所周辺と伝わる。

 白峯寺は弘法大師の四国霊場の札所だけあって、巡礼姿の参拝者であふれているが、頓証寺殿に立ち寄る人は少なく、30分ほどいたが、参拝者は数人だけだった。

 同市内のJR 八十場 (やそば)駅近くには、「八十場(八十八)の清水」という霊水がある。崇徳上皇は8月に亡くなったが、遺体の処置について都からの指示を待つ間、遺体を浸して腐敗するのを防いだという伝承がある場所だ。霊水の脇には名物のところてんを販売する店もあり、涼を求める人々でにぎわっていた。そこには怨霊の影などみじんも感じなかった。(デジタル編集部 松崎恵三)

【白峯神宮 データ】

 ◆アクセス 京都市営地下鉄烏丸線今出川駅から徒歩約8分。市バスの場合は、堀川今出川のバス停が最寄りとなる。

【白峯御陵・白峯寺 データ】

 JR坂出駅からバスでバス停「上」下車。徒歩約6分で青海神社。西行法師の道を約40分ほど歩くと白峯御陵・白峯寺に。ほかにバス停「高屋(登山口)」下車後、徒歩約1時間の登山ルートもある。

【ちょっと寄り道】

 「こんぴらさん」の名で親しまれている 金刀 (こと) 比羅 (ひら) (ぐう)(香川県琴平町)本宮は、 大物 (おおもの) 主神 (ぬしのかみ)、崇徳天皇の二柱を祭っている。大物主神は、オオクニヌシの 和魂 (にぎみたま)神のことだ。神道では、神の霊魂は 荒魂 (あらみたま)と和魂という二面性を持つ。災害や疫病を起こすなどの荒々しい側面と、平和や豊作などをもたらす優しい側面を指す。崇徳天皇は崩御の翌年、金刀比羅宮に神霊が奉斎されたという。ここもゆかりの地なのだ。

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