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80年ぶりに対面した父の遺品の軍服…「この声が続く限り」と父へ誓う「語り部」の思い

読売新聞 / 2024年8月14日 22時58分

 終戦の日となる15日、全国戦没者追悼式が行われる。初めて参列する鹿児島県日置市の石神正明さん(90)は、太平洋戦争の末期に激戦地となった沖縄で父をなくした。今年、父の遺品である軍服を80年ぶりに目にした石神さん。式典では、父の鎮魂を願い、戦争の記憶を後世に継承していくことを誓う。(野口恵里花)

 「忘れるはずもない、父のものだ」。今年6月、遺族会の行事で鹿児島県護国神社(鹿児島市)を訪れた石神さんは息をのんだ。境内の建物の中で見かけた海軍の白い軍服。展示品を紹介するプレートには「石神少佐」と書かれている。

 母ソエさん(1990年に80歳で死去)が生前、父・重良さん(享年42歳)の遺品を同神社に寄付したと話していたことを思い出した。10歳の頃、自宅で軍服を着た父の姿が脳裏をよぎり、「悲惨な記憶を語り継いでほしい」と言われているような気がした。

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 長崎県佐世保市の軍港に配属された重良さんに連れられ、同市で、母と弟、妹の5人で暮らした。たまの休みには、海水浴に連れて行ってくれた子煩悩な父。「『勉強せんといかん』とよく言われていた。厳しいけれど優しい父でした」

 1944年、重良さんが沖縄県の海軍司令部に転属となった。「近くて良かった」とソエさんは喜んだが、すぐに戦況が悪化。母子4人で実家のあった鹿児島県東市来町(現・日置市)に疎開した。

 重良さんからは家族の身を案じる手紙が頻繁に届いた。当時は貴重だった黒砂糖を送ってきてくれたこともある。だが、45年4月に米軍が沖縄本島に上陸すると、やりとりが途絶えた。鹿児島への空襲も本格化し、疎開先から鹿児島市の空が真っ赤に染まるのを見た。「次は自分たちが空襲を受ける番だ」と覚悟した。

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 終戦から約1年後、重良さんの戦死の知らせが届いた。ソエさんは慣れない農作業で生計を立てて、石神さんらも手伝った。父の教えを胸に学業に励んだ石神さんは、奨学金で大学まで進み小学校の教諭となった。

 43歳となって生活がようやく落ち着いた77年。父を供養したいと考え、母と妻子を連れて沖縄を訪れた。司令部跡の ごうには、自決に使われた手投げ弾の弾痕が生々しく残っていた。父の最期を想像し、「苦しかったと思う。家族のことも気がかりだっただろう」と思いをはせた。

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 沖縄での体験をきっかけに遺族会の活動に参加し、「語り部」として自らの戦争体験を語ってきた。疎開先の自宅の上空を米軍の戦闘機が横切り、身の危険を感じたこと。学校が危険なので向かいの山で授業を受けたこと。鹿児島県内の小中学校などで子供たちに平和の大切さを訴えた。

 これまでは地元の追悼式に参加してきたが「最初で最後」と思い、初めて全国戦没者追悼式に参列することを決意した。今も戦禍がなくならない世界に、無力さを覚えることも多い。それでも、追悼式ではこう父に誓うつもりだ。「この声が続く限り、語り部を続けていくよ」

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