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手りゅう弾の投げすぎで肩壊した沢村栄治、3度目召集受け「伝説の名投手は27歳で東シナ海に沈んだ」…紙芝居で講演続ける

読売新聞 / 2024年8月17日 13時49分

 プロ野球草創期に東京巨人軍(現巨人)のエースとして活躍した三重県伊勢市出身の沢村栄治。その栄誉と功績をたたえて制定された「沢村賞」は、プロ野球が誕生して90年となる今も、先発投手にとって最高の栄誉とされる。そんな沢村の命を奪ったのは戦争だった。(新良雅司)

 「たった一枚の赤紙(召集令状)で、伝説の名投手が愛する妻子を残し、27歳の若さで東シナ海に沈んだ」

 伊勢市の市民団体「平和紙芝居の会」の中村進一さん(77)は、戦争の理不尽さを強調する。

 元県議の中村さんは、次代を担う子どもたちに平和の大切さを伝えようと、戦後60年の2005年に体験者の話などを基に紙芝居を作り始めた。沢村の生誕100年の17年に製作したのが「沢村栄治ものがたり」だ。

 17歳の少年だった沢村が1934年の日米野球で、ベーブ・ルースら大リーグの強打者から次々と三振を奪ったことや、36年にプロ野球初のノーヒットノーランを達成したことなど、往年の活躍ぶりを21枚の絵で表現した。

 順調だった沢村のプロ野球人生は赤紙で暗転する。38年に中国へ出征。2年後に巨人へ復帰したものの、手りゅう弾の投げすぎなどで肩を壊し、全盛期の剛速球は失われていた。2度目の出征から戻った43年のシーズンを最後に現役を引退。44年には3度目の召集を受け、帰らぬ人になった。

     ◇

 終戦の2年後に生まれた中村さんは幼い頃、父母から戦時中の話を聞かされたことはなかった。地元の高校を卒業後、伊勢市役所に入庁。戦争に関心を持ったのは、75年に空襲展の開催に携わった時だ。

 45年の宇治山田空襲では100人以上の市民が犠牲になった。米軍のB29爆撃機が落とした 焼夷 しょうい弾、戦時中の水筒やガスマスク、市民が持たされた竹やり……。「展示品が自分に何かを語りかけている」と感じた。

 家で空襲の記憶を母に尋ねた。「周りは火の海。焼夷弾の降る中を懸命に走った。家から約3キロ離れた宮川に(身を守るための)布団を背負ったまま腰までつかって隠れた」。初めて聞く話に驚かされた。「あんな時代に二度とせんといてな」。亡き母の言葉が今も胸に残る。

     ◇

 平和をテーマとした紙芝居は「沢村栄治ものがたり」に加え、「二度と戦争しません」「田舎の子どもと戦争」など計5本の作品がある。母から聞いた空襲の話も一部に盛り込んだ。紙芝居の講演は計100回を超え、沢村の母校・伊勢市立明倫小学校でも7月に上演した。

 子どもたちからは感想文が届く。「戦争で自分の大好きなスポーツができなくなるのは悲しい」「何回も赤紙が来て最大の人権侵害だと思った」「夢や幸せを簡単に壊してしまう戦争は絶対にしてはいけない」。平和を願う気持ちは紙芝居を通じて着実に伝わっている。

 来年は戦後80年。「戦禍に 翻弄 ほんろうされた先人の多くが鬼籍に入る中、その記録と記憶を後世につなぐことが我々の世代の役割だ」。中村さんはそんな思いで拍子木を打ち鳴らしている。

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