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「校舎が赤々と炎を上げて最後に『ぐしゃり』と崩れ落ちた」…岐阜・大垣の空襲、無我夢中で逃げた忘れられない恐怖

読売新聞 / 2024年8月18日 19時25分

空襲の様子を振り返る日比さん(岐阜県大垣市で)

 「校舎が赤々と炎を上げていた。しばらくすると柱が黒く炭化していき、最後に『ぐしゃり』と崩れ落ちた」。1945年(昭和20年)7月29日未明、岐阜県大垣市であった大規模な空襲を日比繁男さん(88)は鮮明に覚えている。当時は国民学校(現在の小学校)の4年生。79年が過ぎた今も、 焼夷 しょうい弾が降ってくる中を無我夢中で逃げた恐怖は忘れられないという。(浜島拓也)

 自宅は現在のJR大垣駅の北西にあった。周辺の田畑の間に複数の軍需工場があり、米軍の標的にされた。

 夜ぐっすり寝ていたところを空襲警報で起こされた。母と幼い妹2人と一緒に、家のすぐ前にあった防空 ごうに逃げ込んだ。大人の男性は空襲で起きた火災の消火活動で出払っていて、女性や子供ばかりだった。

 当時の防空壕は地下に穴を掘ったものが一般的だったが、この防空壕は地上に木製の小屋を作り、土をかぶせた独特の形状をしていた。水都と呼ばれる大垣は地下水が豊富で、地面を掘ると水が湧き出てくるためだった。

 空襲が激しくなってくると、避難してきた人々から「ここも危ないんじゃないか」と声が上がり、皆で壕を出た。そこで目にしたのは炎に包まれた校舎だった。自らの学び が焼け落ちていく姿を目の当たりにした。

 灰色の空には爆撃機「B29」の黒々とした機影が見えた。機体の後部から焼夷弾が連なって落ちてくる。母と妹の計4人であぜ道を通って逃げたが、その先にある軍需工場に火の手が上がって逃げ道を失った。田んぼにうずくまった。徐々に空襲が収まり、周囲が白んできた。「助かった」。どれほど時間が過ぎたかは分からない。

 45年に大垣市で起きた6回の空襲のうち、被害が最も大きかったのがこの日だった。市中心部の4900戸が焼失し、死者は50人、重軽傷者は100人余りに上ったとされる。

田んぼの不発弾で負傷

 その年の夏、近所の友だち数人と田んぼで遊んでいた時のことだ。不発弾の尻の部分にプロペラがあり、触っていると「ブーン」と音がして回り出した。慌てて放り出したところ、地面に落ちて爆発した。

 破片が当たった友人は体中に傷を負い、近くの紡績工場の診療所に運ばれた。日比さんも脇腹にけがを負った。別の友人から「血が出てるぞ」と言われて手を当てると、ぬるっとした感触がした。約5ミリの切り傷から出血していた。「79年前の記憶だが、今でもぞっとする」と振り返る。

 戦後も空襲の爪痕は残っていた。校庭や田んぼには無数の不発弾がタケノコのように突き刺さっていたのを覚えている。

 大垣市内では毎年7月に「『空襲体験・戦争体験』を語りつぐつどい」が開かれ、日比さんも参加してきた。「戦争の恐ろしさを身をもって経験した世代は毎年減っている。『戦争は絶対にだめ』と可能な限り伝えていく」と力を込める。

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