1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

荒波の中を2日間漂い、父は救助船に自分を託すと力尽きて沈んだ…学童疎開船「対馬丸」撃沈80年

読売新聞 / 2024年8月22日 19時56分

犠牲者の遺影の前で体験を語る高良さん(右)と照屋さん(那覇市の対馬丸記念館で)

 太平洋戦争中、沖縄から長崎に向かっていた学童疎開船「対馬丸」が、米軍に撃沈されて22日で80年となった。高齢化で生存者の語り部がほとんどいなくなる中、悲劇を次世代に伝えていくための模索が続いている。(野口恵里花)

 「海水が目や鼻に入り、痛かった」。当時4歳だった那覇市の高良政勝さん(84)は、険しい表情で振り返る。10人きょうだいの9番目で、長兄1人を除く家族11人で乗船していた。

 真っ暗な海の上でいかだにつかまり、台風接近による荒波の中を2日間漂った。抱え続けてくれた父は救助船の船員に自分を託すと、力尽きて海に沈んだ。生き残った家族は、当時17歳の姉と2人だけだった。

 長兄と祖父母に育てられて歯科医になった。遺族らの悲願だった対馬丸記念館(那覇市)の設立のため、資金集めに奔走。2004年にオープンした館内には幼い子どもを含め、命を落とした人の遺影が並ぶ。

 「戦争では、とりわけ小さな子どもが犠牲になる。それを伝えるためにも記念館が必要だった」。生存者の高齢化とともに体験を語れる人が減り、「幼時の体験であっても伝えることが生かされた者の義務だ」と自らの経験を話してきた。

 同館が把握する生存者の語り部は2人。もう一人が高良さんの高校の同級生で那覇市の照屋 ひさしさん(84)。あの夜、甲板から海に飛び込むと、しょうゆだるに結われていた縄をつかんだ。

 「お姉ちゃんを探してくるから、絶対に縄を離すんじゃないよ」。母はそう言い残すと、波間に消えた。母や当時7歳だった姉と再会することはなかった。

 漁船に救助され、親戚の元を転々とした。父がシベリア抑留中に病死し、戦後は沖縄で祖父母と暮らした。哀れみの目で見られるのが嫌で、対馬丸の生き残りだということは隠してきた。

 体験を語るよう求められても、ずっと断ってきた。70歳になる頃、高良さんらに説得され、「客観的な情報も含め、自分なりに伝えていこう」と心を決めた。

 2人が懸念するのが、記憶の風化。沖縄県内でも詳細を知らない人が増えてきた。「戦争を経験していない若い世代なりに、対馬丸を語り継いでほしい」

 高良さんは今年4月、長年務めてきた館長を平良次子さん(62)に引き継いだ。6日間漂流して助かった平良さんの母、啓子さんは昨年、88歳で亡くなるまで語り部を続けた。

 そんな母の姿を平良さんは「生き残ってしまった者の責任として、突き動かされているようだった」と語る。沖縄県内で学芸員として働いてきた平良さん。自分の役割は「記録を残すことだ」という。

 「埋もれてしまった証言集をまとめ、後世に残したい」。県内外の中学や高校の生徒にオンラインなどを通じて学んでもらう活動にも力を入れ、戦争の悲惨さを訴えていく。

 ◆対馬丸=1944年8月21日、約1800人を乗せて那覇港を出航した貨物船で、翌22日午後10時過ぎ、鹿児島・悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃で沈没した。少なくとも15歳以下の1040人を含む1484人が亡くなった。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください