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「誰かいいお医者さんはいないですか」…長年の痛み取り除いてくれたのは27年前の担当医、伝えられた感謝の言葉

読売新聞 / 2024年8月26日 7時15分

 トリコロール(三色旗)がはためく自由の国、フランスで28日、パリ・パラリンピックが開幕する。周囲に支えられながら心身を鍛え上げ、ハンデをものともせず躍動する選手たちに迫る。

[トリコロールの下で パラリンピック]トライアスロン 秦由加子 43

 「誰か、いいお医者さんはいないですか」

 2021年秋、トライアスロン女子の秦由加子選手(43)は、右脚の義足を制作してもらっている義肢装具士の斎藤拓さん(41)に悩みを打ち明けた。

 1か月前の東京パラリンピック。選手村で突然、右脚の切断部を激痛が襲った。16年リオデジャネイロ大会でも同じ症状に悩まされ、東京パラに向けて義足を替えたりしていたが、本番直前のアクシデント。レースは得意のスイムこそ1位で通過したが、バイクとランで遅れ、6位に沈んだ。

 「きついトレーニングを積んでも力を出し切れないなんて、もういや」。愚痴をこぼしながら、話が中学1年で骨肉腫を患い、右脚を切断したことに及んだ時、しきりに気にかけてくれた担当医の顔が脳裏に浮かんだ。「あの時、手術してくれたカマダ先生、いま何しているんだろう」

 いまでは腕利きのスポーツドクターとして活躍する鎌田浩史さん(57)も、勤務先の都内の病院に秦選手が入院してきた1994年当時は、医師になって3年目の駆け出し。悲嘆に暮れる少女の心を解きほぐそうと懸命だった。

 骨肉腫はがんの一種で、命に関わる恐ろしい病気だ。思春期を迎えた女の子にとってショックはいかばかりだろう。毎日病室に顔を出しては、「頑張ろうね」と励まし、先輩医師とともに手術に当たった。

 右脚を失った秦選手は、固く口を閉ざした。「熱が出ちゃったね」「お薬を持ってくるね」と言葉をかけても、返事はない。心を通わせられないまま、秦選手は退院していった。

 それから20年あまりがたった2015年。鎌田さんは、秦選手がパラリンピックの正式競技になったトライアスロンでリオデジャネイロ大会を目指していると知った。右脚を失い大好きだったスポーツを諦めたこと、大人になって「義足姿でも前向きになれるかも」と思い直し、競技を始めたことも――。

 「あの子が元気にやっているんだ」。うれしくなって、秦選手のレース結果を逐一確認するなど、陰ながら応援した。陸上日本代表のドクターとして参加した東京五輪では、選手村で秦選手が写ったポスターを見つけては、「この子、僕が手術したんだよ」と周囲に自慢した。

 「あの時はありがとうございました」

 21年10月、秦選手は筑波大付属病院(茨城県つくば市)に鎌田さんを訪ねると、27年前に言えなかった感謝の言葉を伝えた。斎藤さんが偶然にも1か月前に鎌田さんと知り合った縁でかなった再会。鎌田さんは生き生きとした秦選手の表情を目の当たりにして胸が詰まった。

 秦選手が早速、右脚の痛みを相談すると、鎌田さんは「確実に良くなる保証はない。それでも手術を希望するなら、僕にやらせてほしい」と申し出た。痛みの原因は、切断後に成長した右脚の 大腿 だいたい骨が皮膚を圧迫することにあった。走ると衝撃も加わり、激痛を伴う。そこで、骨を削り、脚の先端を筋肉で分厚く覆う手術を行った。

 入院とリハビリに1年をかけ、23年3月に豪州で行われた国際大会で復帰すると、いきなり優勝。レース後、LINEで<鎌田先生にいただいた一度きりの人生を、精いっぱい楽しんでいきたいと思います>と伝えた。

 長年の痛みからようやく解放された。パリでは思う存分走って、全力でゴールを目指す。「鎌田先生が可能性の扉を開いてくれた。あとは自分がやるだけ」。その先にきっと、光り輝くメダルがあると信じて。(塚本康平)

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