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江川卓がこだわった「20勝投手」の勲章、消えた周囲とのわだかまり…「野手に江川の時はあまり打ちたくないという意識があったかも」

読売新聞 / 2024年9月1日 11時0分

1981年の日本シリーズ第6戦で最後の打者をピッチャーフライに打ち取り、両腕を突き上げる江川

 大黒柱として読売巨人軍を支えてきた江川卓氏(69)がエースの美学や矜持、当時の苦労を語った。(敬称略)

2回だけのガッツポーズ

 江川の記憶では、太くて短い9年間の現役生活でガッツポーズをしたのは2回だけだった。

 最初は巨人ではV9最終年の高橋一三以来となる「20勝投手」の勲章を手にした瞬間だ。1981年9月9日、後楽園球場での大洋戦。4―0で迎えた九回二死、速球でバットに空を切らせると、両手を顔の前でグッと振り下ろした。

 19勝目を挙げてからの5日間、極限状態の日々を過ごしていたという。寝つけない夜が続き、口にできたのは妻が作るスープぐらいの日もあった。「それぐらい20勝にかけていた」。周囲とのわだかまりが消えると願っていたからだ。

 栃木・作新学院高、法大で2度のドラフト1位指名を受けたが、これを拒否。「空白の一日」を経て、79年に小林繁とのトレードで阪神から巨人入りした。1年目は9勝10敗。「こんな数字でプロ野球に残るべきではない」。次に2桁勝利に届かないシーズンがあれば、引退すると覚悟した。それほど、チーム内でさえも風当たりが強かった。

 翌年は16勝で最多勝、3年目に悲願の20勝に到達。その時、心に湧いたのは 安堵 あんど感だ。20勝は大投手の証し。実際、素っ気なかったチームメートと打ち解け、メディアの見る目も変わった。「野手には『江川の時はあまり打ちたくない、守りたくない』という意識があったかもしれないが、(環境は)百八十度変わった。19勝で終わっていたら、どうだったのだろう」。新しい景色が広がっていた。

ウイニングボールは自分で

 その年、日本ハムと戦った日本シリーズも思い出深い。3勝2敗で迎えた第6戦に、中3日で3度目の先発登板。その決戦前夜は寝る前に、日本一のウィニングボールをつかみたいと考え「野球の神様にピッチャーライナーをお願いした」。

 翌日、6―3で迎えた九回二死三塁、頭上に打球が舞い上がった。ピッチャーフライだ。飛球をつかんだ江川が高々と両手を掲げると、ナインが作る歓喜の輪に吸い込まれていった。「チームが一つになったと思えた」。記憶にある野球人生最後のガッツポーズ。背番号30のエースが輝いた。

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