1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

多摩川水害から半世紀、自宅を流された男性「また起きても家族と生きのびる」

読売新聞 / 2024年8月30日 16時29分

堤防が決壊し、押し寄せた濁流に次々と流される民家(1974年9月撮影)

 1974年の多摩川水害は9月1日で発生から50年を迎える。東京都狛江市で多摩川の堤防が決壊し、川沿いの民家が次々と濁流に流される様子は全国に生中継され、テレビドラマの題材にもなった。各地で台風による被害が続く中、自宅を流された男性は、命を守ることの大切さを訴える。(石井一秋)

 「父とキャッチボールをしたり、たこ揚げをしたりした思い出の場所。突然、牙を向くとは思ってもいなかった」。狛江市猪方の多摩川河川敷。すぐ近くに住む木村将英さん(64)が、川面を眺めて語り出した。

 50年前のあの日、中学3年だった木村さんは、2階の自室で受験勉強に励んでいた。窓の外では、前日からの雨で増水した多摩川が大きな音を立てていた。

 突然、川に近い小堤防の先端が崩れた。慌てて1階に駆け降り、父・昭久さんと母・京子さんに知らせた。

 濁流は河川敷を削り、自宅前の本堤防に迫る。近くの中学校の体育館に設けられた避難所に家族で向かった。「落ち着けば帰れるだろう」。持ち出したのは、少しの勉強道具と趣味の鉄道の本だけだった。

 日付が変わった頃、体育館の隅で市幹部と険しい顔で話していた昭久さんが、戻ってきて言った。「家が流されたそうだ」。動揺を隠せず、「これからどうなるの」と尋ねた木村さんに、昭久さんは「疲れただろうから、もう寝なさい」と諭すように返した。

 現場では、川を横切る取水 ぜきに行く手を阻まれた水が河川敷にあふれ、堤防を突き破っていた。3日までに流された猪方地区の住宅は、木村さん方を含めて19棟。建設省(当時)や自衛隊が取水堰を爆破して水の通り道を作り、6日になってようやく水害は収まった。

 一家は用意された都営アパートに身を寄せたが、木村さんの手元には参考書もノートもない。精神的なショックも大きく、志望校を変更せざるを得なかった。

 昭久さんが自宅を再建したのは水害から1年後。選んだのは、元の土地だった。

 結婚を機に手に入れた建て売り分譲地。川のせせらぎを聞く暮らしが気に入り、川越しの富士山を撮ろうとカメラの趣味もできた。また被害に遭う心配はあったが、木村さんは、「愛着のある場所だったから」と父の心情をおもんばかった。

 昭久さんら被災者は76年、取水堰の安全性など、国の河川管理の落ち度を問う損害賠償訴訟を提起。最高裁まで争い、国の責任を認める判決を勝ち取った。

 ただ、判決までに要した歳月は16年。木村さんは、住宅ローン返済のために質素な暮らしを続けながら週末になると原告団の会議に出かける父の姿を覚えている。「子どもには一言も愚痴をこぼすことがなかった」

 昭久さんは2013年に、京子さんも16年に他界した。

 木村さんの手元には、大量の家族写真が残された。あの台風が去った後、昭久さんは河川敷を歩き回り、下流で拾った100枚以上の写真を大事そうに持ち帰ってきた。木村さんが所帯を持って孫娘ができてからは、その成長をカメラで記録し続けた。

 一家の暮らしは水害で一変した。それでも木村さんは、「助かってよかった」と思う。家を流されながらも家族の記憶を紡ぎ続けることができたのは、あの時、とっさに逃げたからだと。

 今、父が再建した家で妻と長女と暮らす木村さんは、玄関に家族全員のヘルメットを置き、懐中電灯や非常食も用意している。「もう一度大きな災害が起きても、また家族と生きのびる。父の残してくれた写真を持って」。そう心に決めている。

 ◆多摩川水害=1974年9月1日、台風16号による豪雨で多摩川が増水して堤防が決壊、狛江市の住宅19棟が流されたほか、1200棟以上が浸水被害を受けた。犠牲者はいなかった。国は水害後、堰や水門など河川設備の全国的な緊急点検を行い、76年度以降、設備の改良工事を進めた。水害から着想を得た脚本家の山田太一さんが手がけ、77年に放送されたテレビドラマ「岸辺のアルバム」は大きな反響を呼んだ。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください