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兵庫県唯一の天皇陵、「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇とはどのような人物だったのか

読売新聞 / 2024年10月18日 11時40分

鳴門海峡の渦潮。淳仁天皇もこの光景をみたのだろうか

前回紹介した京都市の白峯神宮には、崇徳(すとく)上皇と淳仁(じゅんにん)天皇という二柱の祭神がいた。淳仁天皇が崩御したのは奈良時代なのだが、淳仁天皇という死後の名前である()(ごう)が付いたのは明治時代になってからだ。その間は、廃帝もしくは淡路廃帝などと呼ばれていた。兵庫県に唯一ある天皇陵「淡路陵(あわじのみささぎ)」に葬られている淳仁天皇とはどのような人物だったのだろうか。

 タコ漁で有名な兵庫県の明石港からフェリーに乗り、明石海峡大橋の下をくぐって淡路島に向かう。同大橋を使い、バスで淡路島に渡ればあっという間だが、今回は昔ながらのルートで淡路島に行くことにした。フェリーは島北部の岩屋港に着く。

天武天皇の孫、淡路島にある天皇陵

 小倉百人一首の選者とされる藤原定家の和歌「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや()(しお)の身もこがれつつ」に詠まれた「まつほの浦」は、明石海峡に面した岩屋地区北部の海岸のことだ。播磨灘と大阪湾の間にある明石海峡は、潮流の激しい瀬戸内海の難所で、時間帯によっては潮流が変わるまで船待ちすることもあったという。岩屋港からは、バスで淡路島の中心地、洲本市を経て、島南部の南あわじ市に向かう。

 今の淡路島は兵庫県の一部だが、律令制の時代には淡路国というひとつの国であった。平城京などから出土した木簡によると、租庸調(税として穀物や労役、布などを国家に納めていた)とは別に、淡路国からは海産物を(にえ)として天皇家や朝廷の食事を管理していた役所である内膳司(うちのかしわでのつかさ)に納めていたことが分かっている。明石海峡、鳴門海峡に挟まれた地形は、豊富な海産物に恵まれていた。朝廷にとって淡路国は特別な位置付けの国だったようだ。

 島の南部、南あわじ市は三原平野が広がる中にある。淡路国の国府は遺構が発見されておらず、正確な位置は分からないものの、国分寺がある同市内だったと推定されていて、ここが淡路国の中心地だった。賀集という集落のそばのこんもりとした森の丘陵が淳仁天皇陵だ。周囲には淡路島の名産タマネギ畑などが広がっている。天皇陵を示す看板や石碑がなければ、陵墓とは気付かないかもしれない。

皇族、藤原氏の権力争いの末にまわってきた皇位

 淳仁天皇は、壬申の乱で有名な天武天皇の皇子、舎人親王の子として733年に生まれた。幼くして父親が亡くなったこともあり、官位を受けることなく、20歳過ぎまでは注目されない存在だった。

 しかし、運命は757年に大きく変わる。東大寺大仏を建立した聖武天皇の後、娘である孝謙天皇が即位し、皇太子には同じ天武系の道祖王がなっていたのだが、この年に廃されて、大炊王(おおいのおう)(後の淳仁天皇)が皇太子となったのだ。

 当時、政治の世界では天皇の一族である皇親勢力と藤原氏の間で権力争いが繰り広げられていた。孝謙天皇の母親は光明皇后(光明子)といって藤原不比等の娘で、臣下の女性が皇后についた初めての例だった。光明子の立后(皇后になること)に反対した長屋王(皇親勢力の中心人物)は「長屋王の変」で自殺させられ、彼を排除したことで光明皇后が実現している。

 大炊王の立太子では、不比等の孫である藤原仲麻呂の推挙があった。大炊王は、仲麻呂の亡くなった長男の未亡人を妻として迎えたほか、仲麻呂の私邸に住むなど二人は深く結びついていた。

 孝謙天皇の即位時も、女性天皇の即位に批判的だった皇親勢力の橘諸兄らが遠ざけられ、後に諸兄の息子の橘奈良麻呂による乱が起こり、先に廃太子された道祖王もこの乱に関与したとして捕まり、獄死している。

藤原仲麻呂という存在に左右された人生

 孝謙天皇が譲位して、大炊王が天皇になったのは758年のことだ。政治の実権は仲麻呂が握っていた。仲麻呂は760年に皇室外として初めて太政大臣になる。だが、この栄華も長くは続かなかった。病気がちになった孝謙上皇は、看病にあたった僧、道鏡を寵愛(ちょうあい)し始めたのだ。仲麻呂の進言により淳仁天皇がいさめると、上皇の怒りを買い、逆に上皇との対立が深まるようになる。仲麻呂は764年に乱を起こすも失敗して殺害された。淳仁天皇も廃位の上、淡路国に流される。翌年、流刑地から逃亡を図り、捕まった翌日に死去したとされるが、殺害されたと推定されている。当時都には前天皇である淳仁天皇とつながっている貴族も多く残っていて、称徳天皇(孝謙上皇が再び天皇になった名前)周辺は警戒していたようだ。おそらく殺害の経緯もあって諡号は贈られず、廃帝もしくは淡路廃帝の名前で呼ばれることになったと思われる。

 淳仁天皇陵の近くには、淳仁天皇の母親である当麻(たいま)夫人の墓もある。流罪となった天皇とともに淡路島に来て、淳仁天皇と同時期に亡くなったとされている。

配流先の淡路島に散在するゆかりの地、地元の民に慕われる

 全国的には知名度が高いとはいえない淳仁天皇だが、淡路島の地元住民からは慕われていた。同島には淳仁天皇ゆかりの地が数多くある。天皇としての葬儀さえも行われなかった淳仁天皇の陵墓は、明治時代になってから先に紹介した賀集の森に比定されたのだが、地元には他にも陵墓と伝わってきた場所がある。

 淳仁天皇陵から北に約4キロ歩いたところに大炊神社がある。祭神は淳仁天皇で、敷地内に天皇塚と呼ばれる森がある。実はここも淳仁天皇の遺体を葬ったと伝わる場所なのである。

 さらに遺体を火葬した場所と伝わるのが野辺の宮で、近くには火葬後、最初に葬ったとされる丘の松という場所もあり、こちらは宮内庁が管理する陵墓参考地になっている。

 淡路島以外にもある。淳仁天皇の時代、滋賀県(近江国)には「保良宮(ほらのみや)」という宮殿があった。仲麻呂の藤原南家(藤原不比等の長男、武智麻呂の子孫)は代々近江守を務め、縁が深かったためで、同県長浜市にも淳仁天皇陵伝承地があるのだ。

 兄頼朝と対立し、悲劇的な最期を遂げた源義経に好意を持つ「判官びいき」という言葉がある。悲劇的な最後を遂げた人物に対する同情は日本人の特徴なのだろう。淳仁天皇ゆかりの地の多さはそれを物語っているように思えてならない。(デジタル編集部 松崎恵三)

【淳仁天皇陵(淡路陵) データ】

 ◆アクセス 洲本バスセンターからバスで「御陵前」下車。徒歩約5分。

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