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気仙沼で被災も避難所で裏山へ砲丸・出産後2年でパラ…家族に支えられパリで不屈の投てき

読売新聞 / 2024年9月5日 5時37分

陸上女子砲丸投げ決勝に臨む斎藤由希子選手(4日、サンドニで)=須藤菜々子撮影

 【パリ=松本慎平】4日のパリパラリンピック陸上女子砲丸投げで4位入賞した斎藤由希子選手(31)は宮城県気仙沼市出身。2011年3月の東日本大震災の津波で自宅を流されながら、周囲の支えも得て競技を続けた。あれから13年半。結婚、2度の代表落選、出産を経て初出場し、全力を出し切った。

 5位につけて臨んだ最終6投目。半回転しながら腕を突き出すと、重さ4キロの砲丸は弧を描き、この日最高の11メートル61。その時点の3位には12センチ及ばず、目をつぶって少しうつむいた。競技後の取材には「サポートしてくれたたくさんの方々のおかげで、細く長くここまで来られた。ありがたいことです」と目を潤ませた。

片手でできると、砲丸投げ選ぶ

 生まれつき左肘の先がなく、中学で始めた砲丸投げは「片手でできて、自分一人で完結できる」のが性に合った。高校ではインターハイ(総体)を目指し、出場できたら満足して引退するはずだった。

 震災が起きたのは3年生に上がる直前。高台の校舎から家や車が黒い波にのみ込まれるのを見た。帰る家を失い、避難所となった体育館で半年ほど暮らした。

 「被災していない選手に負けたくない」と、学校から砲丸を避難所に持ち込み、支援物資のジャージーを着て練習した。人目について「変な人」と思われないよう、駐車場の片隅で裏山に向かってこっそり投げた。

 ただ、試合では記録が伸びず、消化不良のまま総体出場を逃した。「もうちょっと続けたい」と県内の大学に進学した。

次々と日本記録更新

 大学では1年目からパラ陸上の大会に出た。砲丸、やり、円盤と、投てき競技の日本記録を全て更新し、4年生だった15年には、砲丸投げで当時の世界記録12メートル47も出した。傍らには、3学年先輩の砲丸投げ選手で、後に夫となる恭一さん(34)がいた。「一番寄り添って応援してくれた」

 当時、パラリンピック出場には大きな壁があった。斎藤選手の障害クラス「F46」は砲丸投げの競技人口が少なく、16年リオデジャネイロ大会は実施種目から漏れた。やり投げで挑戦したが、リオ大会も次の東京大会も代表に届かなかった。

 パリ大会で「F46」の砲丸投げ実施が決まったのは東京大会後。第1子を妊娠中だった。22年3月に長女・ 千遥 ちはるちゃん(2)を出産した時、筋肉の衰えで体重は15キロも落ちていた。5月に練習を再開した直後は、砲丸は7メートルしか飛ばなかった。

 「時間が足りない」。焦りを抱えながら投てき本数を徐々に増やし、トレーニングを重ねて体を元に戻した。恭一さんは1年間の育児休業を取って千遥ちゃんの面倒を見つつ、投てきフォームの映像を一緒に見て、修正作業に付き合った。

 成果は、23年7月の世界選手権で表れた。11メートル42と3位に食い込み、パリ大会の代表枠を勝ち取った。

 試合直前、福島市の自宅にいる恭一さんと千遥ちゃんから、ビデオ通話で「頑張れ」と励まされ、「行ってきます」とフィールドに向かった。恭一さんは「本人が楽しんだのであれば良かった」とねぎらい、斎藤選手は「家族やコーチの支えで競技を続けられた。私自身は満足です」と声を振り絞った。

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