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ドラえもんのひみつ道具案出したことも、「どの話かは秘密」……てんとう虫コミックス50周年、担当編集者思い出を語る

読売新聞 / 2024年9月16日 15時30分

「小四」だけ連載予告が入ったのは「当時の『小四』編集長の方針だった」と振り返る河井さん

 小学館のレーベル「てんとう虫コミックス」が今年、50周年を迎えた。藤子・F・不二雄さん(本名・藤本弘、1933~96年)の『ドラえもん』単行本化のため生まれたレーベルだ。初代担当編集者で小学館OBの河井常吉さん(79)は今も、藤子さんとの仕事の思い出を大切に胸に収めている。(高梨しのぶ)

ドラえもん 歩き出した日…初代編集者・河井常吉さん

 たんこぶを作って道路を歩くのび太の後ろの電柱に書かれた「河井質店」の文字――。第1巻の最初に収録された「未来の国から はるばると」の最後のコマは、藤子さんの河井さんへの遊び心を込めた温かな感謝の気持ちが詰まっている。「当時は、大したことじゃないと思っていたんですよ。質屋じゃない方が良かったなぁ、なんて」と笑う。

 河井さんは1968年に小学館入社。69年、学年誌「小学四年生」の編集者になった。藤子さんが同誌で連載中の作品が、年内で終わることになり、すぐに新連載を始めることになった。幼年誌と学年誌の計6誌で、一斉に始めるのは当時でもまれだった。藤子さんの連載予告ページを「小四」だけで載せることになり、河井さんは校了当日の朝、原稿を受け取った。

 ところが、この予告はタイトルがわからず、ドラえもんの姿もない。河井さんは編集部内でひどく怒られたという。「主人公は? タイトルは?――聞かれるたびに答えられない」と苦笑する。

 だが、連載が70年1月号で始まってから、人気を広く集めたことは誰もが知るとおりだ。

 「小四」でこのとき藤子さんを担当した期間は3年半ほど。「以降もおつき合いが続きました。物静かで、僕がずっと話すのをじっと聞いてくださる、聞き上手な先生でした」。担当時に河井さんが子供の頃の思い出話をしたり、「ひみつ道具」案を考えて伝えたりすると、後日、原稿に登場することもあった。「どの話かって? 秘密です」

 担当時代、2人きりで話したある時、多弁ではない藤子さんが「河井さん、僕、ドラえもんに会えて本当に良かった」と、ぽつりと語ったという。“会えた”という表現に、藤子さんの思いがにじむかのようだ。

 <ある彫刻家がいっていました。自分がつくるんじゃなくて、空間にその作品はすでに出来ていて、自分はそれをとりだすだけなんだと。ぼくもそんな気がしているんですよ。ドラえもんにしても、のび太にしても、登場人物が一人歩きするというのは、全くそのとおり>――。93年頃の藤子さんの言葉だ。藤子さんが未来から連れてきてくれたネコ型ロボットと仲間たちは、これからも長く愛され続けていく。

第1巻「スペシャル版」刊行

 てんとう虫コミックス50周年を記念して、『ドラえもん』第1巻の「スペシャル版」が今夏、刊行された。別冊ふろくで、その歴史を紹介している。

 小学館によると『ドラえもん』は「発売から毎年、全巻が重版する。小学校低学年が主な読者層のため、今も電子より紙で売れている」という。シリーズ累計発行部数は1億部を超す。1974年7月25日に初版2万5000部で刊行された第1巻は、通常のものだけでも今年7月現在、紙のみで267刷442万部に達する。

 59年に同社で創刊された「週刊少年サンデー」の連載作品は当初、単行本化の際に別の社から発売されていた。

 『ドラえもん』連載は同社の幼年誌や学年誌計6誌の70年1月号で同時に始まった。読者年齢に合わせ、お話は各誌で違う。その面白さやキャラクターの魅力に加え、のび太の背丈が、掲載誌の学年が上がるほど大きくなるよう藤子さんが描き分けるなど、読者が親近感を抱く仕掛けもあった。

 単行本化のため、小学館では学年誌を横断した編集チームが組まれた。レーベル名は当時、学年誌で人気が並ぶ存在だった、川崎のぼる『てんとう虫の歌』にちなむ。『ドラえもん』は74年12月までに、当初予定の6巻までが発売されたが、翌年に100万部を突破し、続刊が決まったという。

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