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北海道の続縄文人は東北の弥生人と交流…土器や石器出土、水稲農耕取り入れか

読売新聞 / 2024年9月11日 18時33分

土器片や木炭などが見つかった大中山13遺跡。左は遺跡見学会で説明する上條信彦教授(8日)

 青森県の弘前大学北日本考古学研究センターは8日、北海道七飯町大川の大中山遺跡で、津軽海峡を隔てた東北北部の弥生人と密接な交流関係にあったことを示す土器や石器が出土したと発表した。同センターの上條信彦教授によると、もっぱら狩猟採集生活だったとされる続縄文人が水稲農耕を取り入れていた可能性をうかがわせるもので、水稲農耕の北上や続縄文文化の解明につながると期待している。

 これまで、稲作は津軽海峡を渡らず、北海道は縄文時代の狩猟採集の生活が続いたとされる。そのため、北海道では弥生時代から古墳時代にかけてを続縄文時代と呼んでいる。今回の発掘調査が行われたのは、横津岳山麓の標高約80メートルの高台にある続縄文時代の大中山13遺跡(七飯町大川)と縄文時代晩期の大中山3遺跡(同)、海岸線から近い低地にある下添山遺跡(北斗市常盤)の3か所。

 2日から発掘が始まった大中山13遺跡では、弥生文化の影響を受けたとみられる土器の破片や木炭などの遺物を多数含んだ地層を確認。大中山3遺跡でも、多数の土器や、 石鏃 せきぞく(石のやじり)などの狩猟生活を示す遺物、竪穴建物跡あるいは墓とみられる縄文晩期の土坑4基が見つかった(8日時点)。

 道南では稲作文化の影響を受けた土器など本州との交流を示す遺物が多数出土していることから、上條教授は「水稲文化が津軽海峡で終わり、北海道と交流関係がなくなったわけではない。函館平野の人たちは縄文時代からの精神性や交流を維持しつつ、一部の集落は弥生の新しい情報を取り入れて徐々に生活様式を変え、水稲農耕を営んでいた可能性が高い」と推測する。

 冷涼な気候のため北海道は稲作に不向きとされていたが、近年の研究からすると、縄文から弥生に移り変わろうとする約2400年前の温暖期に稲作が想定以上に北上、品種や技術の改良も進み、北限とされる津軽平野と似た地形の函館平野で稲作が拡大していたとしてもおかしくはないという。ただ、稲作文化の痕跡を示す炭化米や水田跡などは見つかっていない。

 上條教授は、東北最古の水田跡が発掘された砂沢遺跡(青森県弘前市)などを念頭に、「津軽平野では縄文から弥生への移行は重層的で、安定的に水稲を栽培していた地域と、縄文時代の伝統を受け継ぐ地域が併存していた。函館平野も同様の状況だったのでは」と話している。

 低地にある下添山遺跡の調査は17日から行われる。

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