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「歴史上もっとも鮮やかな救出」フジモリ元大統領の自負…半面、元大尉への依存が「大きな失敗」

読売新聞 / 2024年9月12日 19時55分

日本大使公邸人質事件で、人質の解放後に報道陣に手を振るフジモリ氏(1997年4月)

[評伝]

 「歴史上もっとも鮮やかな救出作戦だった」

 特殊部隊の突入で日本大使公邸占拠事件を終わらせた後の記者会見でフジモリ氏が見せた、自信のみなぎる顔をよく覚えている。

 困難な作戦を見事に成功させた指揮官の威光は世界に輝いた。大胆で冷静、ぶれないリーダーの模範のようにいわれた。

 だが、そのとき失脚への助走は始まっていた。腹心のウラジミロ・モンテシノス国家情報局顧問への依存が抜き差しならなくなっていたからだ。

 ペルー陸軍元大尉のモンテシノス氏は、機密情報を米国に渡し、投獄された経歴を持ついわくつきの人物だ。大学教授出身で政治経験の乏しい大統領に取り入ると、古巣の軍とのパイプ役となって影響力を拡大した。公邸突入作戦も元大尉の立案といわれる。

 フジモリ氏にとって、1990年の就任当初からくすぶる出生疑惑がアキレス けんだった。熊本県出身の両親を持つ大統領自身は戸籍上のリマでなく、日本で生まれたのではないかというものだ。憲法に従うとペルー生まれでなければ大統領になれない。

 離婚協議中だったスサナ夫人の求めで、リマの教会が大統領の洗礼記録を開示したことがある。洗礼帳に本当の出生地が書き込まれているのでは――。地元テレビのカメラの前で帳簿が開かれると、フジモリ氏の欄は刃物で削り取られていた。元大尉が先回りしたのだろうといわれた。

 フジモリ政権終盤の混乱は、元大尉による政界買収工作が表沙汰になったのがきっかけだった。元大尉は後に多額の公金の横領も明るみに出た。

 反政府デモが吹き荒れる中、ブルネイでの国際会議出席のため大統領専用機で出国したとき、当面ペルーに戻らない覚悟はできていただろう。帰路、給油で日本に立ち寄るとそのまま居ついた。日本国籍がすんなり確認できたのは、両親がリマの領事館経由で熊本の役場に出生届を出して日本国籍を留保していたからだ。

 10年間の大統領在任中、左翼過激派を抑え込んで治安を回復させ、どん底の経済を立て直したフジモリ氏の功績は決して小さくない。しかし、その過程で治安部隊による人権侵害が続発した。その責任も無視できない。

 人権侵害については、大統領在任中から国内外の人権団体に再三批判されていた。フジモリ氏が適切に対処しなかったのは、不正蓄財に忙しい元大尉や軍幹部から、耳に心地よい報告を聞かされ、放置してしまったのが真相だろうか。

 日本滞在中の2003年にインタビューした際、元大尉について聞くと「彼を疑わず、つけ込まれた。大きな失敗だった」と嘆いた。人権侵害の汚名を拭えないまま、世を去ることになったのは痛恨だろう。(元編集委員 石黒穣)

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