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余裕で日帰りできる「東京~新大阪4時間」は相当な衝撃だった[日記で振り返る新幹線60年]

読売新聞 / 2024年9月28日 10時0分

【1964年9月27日】走行テストは開業直前まで行われた(鴨宮~相模川鉄橋で)

 東海道新幹線は1964年10月1日の開業から、まもなく還暦を迎える。観光、ビジネス、冠婚葬祭……さまざまな目的で利用する累計68億人以上を喜びや悲しみとともに運んできた。この60年間を、著名人が新幹線に乗った折の日記をひもときながら、日本の大動脈・東京~新大阪の歩みを振り返ってみたい。

「日帰りとは楽になったものだ」

帰りも新幹線、夜八時半帰宅。日帰りとは楽になったものだ。(佐藤栄作日記=1967年1月4日)

 第61代首相の佐藤栄作(1901~75)は、年頭の伊勢神宮参拝を終え、日記にこう書き留めた。東京駅をたったのが朝の8時半だから、「楽になったものだ」との一言に、快適な旅だった感想が読み取れる。

 新幹線の開業で、東京~新大阪は「ひかり」が4時間、「こだま」が5時間(翌65年11月からそれぞれ3時間10分、4時間に)で移動できるようになった。特に「ひかり」は、東京を出ると名古屋までノンストップ。あとは京都にだけ止まり、新大阪へ滑り込む。在来線では最速の特急電車に乗っても6時間30分かかっていたから、一気に2時間以上短縮されたことになる。これにより目的地には半日近く滞在でき、余裕を持った日帰りでの往復が可能になった。新幹線は文字通り、旅のありようを劇的に変えた。

 ひかり号は開業当初、「夢の超特急」と呼ばれた。そのスピードは「超」にふさわしく、世の中を相当驚かせたようだ。元マガジンハウス社長の赤木洋一(1936~)は「平凡パンチ」誌編集者だった1964年、大阪出張へ向かう夜行列車の窓越しに、新幹線の下り一番列車と遭遇した。東海道線が新幹線と並行する区間だった。その時の衝撃を、自著で詳しく書いている。

 「ちょうど大津に差しかかったとき、窓外に突如巨大な先頭車両のノーズがまるで空中に飛び立つように現われ、カーブで傾いた横腹を見せながら視界から消えていった。新旧の線路が平行しているとは予想もしていなかったので、息を ()んで見送った。こちらの列車は追い越されている間、まるで動いていないような錯覚にとらわれてショックを受けた。はるばる一晩かけて大阪に行くぼくを、始発の新幹線は悠然と抜き去ったのである」(『平凡パンチ1964』)

東京駅一時発の新幹線試乗。多摩川を渡るまで十二分、小田原まで三十八分、湯河原まで四十八分、(入江 (すけ) (まさ) 日記=1964年9月27日)

 開通直前の試乗会に参加した昭和天皇の侍従・入江相政(1905~85)も、速さに驚きを隠さなかった。所要時間を日記に克明に書き留めている。途中、停電などのトラブルはあったが、30分遅れで名古屋着。

 「帰りは順調。小田原七時五十三分、新横浜八時十二分、東京八時三十二分で帰る。一等十七列九十八席。今日の最高二百十キロ」と、帰路も時刻を記録している。

まとまった自由時間、有意義に過ごす

 短縮されたとはいえ、新幹線で過ごす3~4時間は、乗客にとってそれなりにまとまった時間。この自由時間をふだんできないことに充て、有意義に過ごした人は少なくないだろう。

桑田と宮田コーチは、それからも新幹線のなかでずっとふたりで話をしていた。主に桑田が質問するかたちで、宮田コーチの現役時代のことを聞いていた。それは、若い社員が、会社の上司の若いころの話を聞いている姿と、なにひとつ変わらない光景だった。(巨人日記=1992年5月25日)

 文筆家の井上一馬(1956~)は1992年のプロ野球シーズン、読売巨人軍の全試合に同行し、その期間の日記をスポーツ誌に連載した。ナゴヤ球場で中日戦を終えた翌日、井上は東京に向かう新幹線内で、興味深い光景を目撃する。プロ7年目、24歳のエース桑田真澄(1968~)が投手コーチの宮田征典(1939~2006)と隣り合って座り、ずっと話し込んでいたのだ。会話の一部が引用されている。

 「大丈夫か?」
 「ええ、大丈夫です。たとえ一、二年悪くても、これからまだ十年以上野球をやっていくんですから、今度のことも自分ではいい勉強だと思ってます。これからはあまり勝ち負けにこだわらずに、やるだけのことをやればそれでいいと思ってるんです」

 途中、桑田は同じ車両に乗り合わせていたファンから、一緒に写真を撮ってほしいと頼まれている。それに応じると、再び桑田は宮田との話に戻った。当時の桑田は思うように勝てず、悩んでいたようだ。宮田と言えば、巨人V9初年の1965年、リリーフエースとして69試合に登板、20勝を挙げた。登板時刻から「8時半の男」と呼ばれた。その大先輩からじっくりアドバイスを得る時間を確保できたのも、新幹線のおかげだったと言えるだろう。

「キミたちは可哀想だね」

 もっとも「3時間」が当たり前になると、便利さを棚に上げて「昔はよかった」という心境になるのも人の常らしい。

 評論家の坪内祐三(1958~2020)は月刊誌「東京人」の編集者だった頃、編集長の粕谷一希(1930~2014)からかけられた一言を自著で振り返っている。

 粕谷が月刊誌「中央公論」の編集者時代、新幹線はまだなかった。京都に住む学者に会いに行くには泊まりがけになる。だがその分、名だたる学者たちとゆっくり話ができたし、大きな原稿の約束や、優秀な若手研究者の紹介をしてもらえた……。

 「それに比べてキミたち今の編集者たちは () (わい) (そう)だね、京都や大阪なら日帰り仕事なのだから」(『一九七二』)

 東京~新大阪はさらにスピードアップし、今は最短で2時間21分。開業当初から約1時間40分も短縮されている。

引用文献
佐藤栄作日記 第三巻(伊藤隆監修、朝日新聞社、1998年)
平凡パンチ1964(赤木洋一、平凡社新書、2004年)
入江相政日記 第三巻(入江為年監修、朝日新聞社、1990年)
巨人日記(井上一馬、文芸春秋、1992年)
一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」(坪内祐三、文春学芸ライブラリー、2020年)

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