「幻影のような霊峰が宙に」…窓越しに乗客を魅了してきた「世界の富士山」[日記で振り返る新幹線60年]
読売新聞 / 2024年9月29日 10時0分
列車旅の楽しみの一つは、移り行く車窓風景だ。駅弁やお酒をお供に、ぼんやり窓の外を眺めるのが好きな人も多いだろう。東京~新大阪を3時間前後で駆け抜ける東海道新幹線の場合、風景が瞬時に変わるところも魅力かもしれない。窓越しの感動は、新幹線に乗った著名人の日記にも書き留められている。「世界の富士山」を始め、見どころはいろいろあるようだ。
田植えの風景を眺め、幼少期にタイムスリップ
東京―大阪間の列車の窓から眺めただけでも
まずは、新幹線内でタイムスリップを楽しんだ話。弁護士出身で初の最高裁長官になった藤林益三(1907~2007)は、新幹線の窓越しに田植えの光景を見かけた。目を閉じ、京都府の山あいで過ごした幼少期の記憶をよみがえらせていく。
「
同じ年の7月22日の記述によれば、藤林は当時、同僚の業務の後始末を引き受ける格好で、頻繁に京都・大阪へ通わなければならなかった。2年半で実に100往復。「車中ですごした時間が約六〇〇時間、おおかた一月近く新幹線に乗っていたことになる」と計算している。幼少期を思い出させてくれた窓外の風景は、そんな疲れをいささかでも癒やしてくれたのではないだろうか。
「頭を雲の上に出し」…歌詞のとおりだった
東海道新幹線の車窓で最大のポイントはやはり、日本の象徴・富士山だろう。新大阪に向かう下りに乗ると、三島駅を過ぎたあたりの右側に姿を現す富士山。この場面は、感嘆の言葉とともに著名人の日記にもしばしば登場してきた。例えばタレントの壇蜜(1980~)と清水ミチコ(1960~)はこう記している。
今日も富士山はご機嫌。(壇蜜日記=2014年12月21日)
移動の新幹線から見えた富士山、すごくきれいだった。たたえたわあ。初富士。ぱちぱちぱちぱち。で、富士山ったら本当に歌詞どおりにわざわざ「頭を雲の上に出し」てたもんだから、調子に乗ったカンジがして、ちょっと笑っちゃった。(私の10年日記=1999年○月×日)
天文学者の石田五郎(1924~92)は、岡山天体物理観測所に在職時、所用のため新幹線で上京した折の模様を日記に書き残している。前後の状況から、1971年1月26日と思われる。「新幹線の窓からまっ白な伊吹山が見える。すこしウトウトすると、富士山の白雪が、夕日で赤く染まっている。日が暮れて東京につく」。石田はこの直前に「列車にのるとすぐ眠る」と書いている。石田にとって、新大阪から東京に向かう3時間余りで印象深い光景は、滋賀・岐阜県境の伊吹山と富士山だったことになる。
「朦朧体絵画のよう」
作品に富士山を繰り返し描く現代美術家の横尾忠則(1936~)は、新幹線内から富士山を眺めた際の感想を日記に書き残してきた。
新幹線での富士山は
「幻影のような霊峰」と書いた2年後、新神戸から帰京する際には「空も風景も灰色に煙った中から
肉親の死という悲しい出来事に接した後に目にする富士山は、また新たな感慨があるようだ。
新幹線から富士山が見える。父は今日のことも知っていて、すべて通夜、葬式が日曜日までにかたづくように逝ったように思えた。(明るい原田病日記=2007年7月10日)
「今日のこと」とは、姫路文学館で行われた講演会の仕事を指す。作家の森まゆみ(1954~)はその直前、7月6日に父を病で失った。7日に通夜、8日に葬儀を済ませたばかり。「(父が)病気になる前に引き受けた仕事。このところは父の容態によってどういうことになるか、はらはらしていた」というタイミングでの講演は、館員の細やかな配慮と熱心な聴衆に恵まれ、大成功裏に終わった。
「カメラをご持参の方は記念にどうぞ」
富士山は季節や位置によって、さまざまな姿を見せる。業務で東京~新大阪を往復し、毎日のように富士山を眺めている新幹線の車掌長は、そんな多彩な表情を心得ているはず。それでも「初めて」と驚くほどの珍しい富士山に出合うことがあった。
それは「ひかり」の窓に映ったもの。時折、雲のいたずらか、頂きに綿帽子をかぶることはあるが、なんとそれが三段になっている。さっそく放送で、「今日の富士山はとても珍しい記念すべきものです。カメラをご持参の方は記念にどうぞ」とやったところ、車中はカメラの放列、パチパチ始まった。(新・新幹線車掌日記=1980年1月12日)
どんなに珍しい光景も、見慣れていない人にとっては教わるまで気づかないもの。サービス精神にあふれた車掌のおかげで、この新幹線に乗り合わせた人たちは、お得感とともに幸せな気分を味わったことだろう。
引用文献
日記―最高裁の時代(藤林益三、東京布井出版、1984年)
壇蜜日記2(壇蜜、文春文庫、2015年)
私の10年日記(清水ミチコ、幻冬舎、2006年)
天文台日記(石田五郎、中公文庫、2004年)
横尾忠則 創作の秘宝日記(横尾忠則、文芸春秋、2020年)
明るい原田病日記(森まゆみ、ちくま文庫、2013年)
新・新幹線車掌日記(岡田重雄、実業之日本社、1981年)
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