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リーグ優勝の「アルコールの匂い」に爆発物騒ぎ…ニュースの現場でもあった[日記で振り返る新幹線60年]

読売新聞 / 2024年9月30日 10時0分

第88回全国高校野球選手権大会で初優勝を果たした早稲田実業のナイン。ファンの声援を受け帰京する斎藤佑樹投手(左から2人目)ら。JR新大阪駅で=2006年8月22日

 1年365日、要人を含め大勢の人が行き来する日本の大動脈・東海道新幹線は、車内や駅がニュースの現場になってきた。事件の舞台や、即席の記者会見場になることも。その模様が報道されることもしばしばだった。

グリーン車内に響いた選手たちの大いびき

あと、数分で新横浜。アルコールのにおいを漂わせ、うつろな寝ぼけ眼の僕たちを乗せた新幹線は、スローダウンしはじめた。車両の前後についた電光フラッシュに、また「横浜ベイスターズ、38年ぶりの優勝」の文字が流れた。(大魔神の優勝日記=1998年10月9日)

 この年のプロ野球セ・リーグは、横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)が、38年ぶりに優勝。甲子園球場の阪神戦で優勝を決めた翌日。新大阪発の上り「ひかり102号」のグリーン車内は、祝勝会の酒が残る選手たちの大いびきが響きわたった。

 「大魔神」の愛称で親しまれたリリーフエース佐々木主浩(かづひろ)(1968~)は自著で、「車内に居合わせた4、5人のビジネスマンにとってはいい迷惑だったろう。せっかくグリーン車に乗ったのに、そこは、酒の匂いをプンプン漂わせたいかつい男たちで占領されていたのだから」と申し訳なさそうに振り返る。

 プロ野球の優勝争いに新幹線が登場する場面と言えば、1973年の巨人軍を思い出す。それは、V9へ自力優勝の可能性が消えていた10月20日のこと。中日球場で行われた中日対阪神26回戦で、「勝つか引き分ければ優勝」だった阪神を中日が破り、胴上げを阻んだ。翌21日の読売新聞朝刊にはこうある。

 「九回裏、阪神の攻撃もいよいよ幕切れ近い午後四時二分、大阪へ向かう巨人ナインを乗せた『ひかり』が、中日球場のわきを通過していった。再びよみがえった優勝のチャンス。車中では、思わず大きな『バンザイ!!』がわき起こったという」

 そして巨人は22日、甲子園球場で行われたシーズン最終戦で阪神を破り、リーグ9連覇を達成する。両チームの勝率は、巨人の5割2分3厘8毛に対し、阪神は5割2分3毛という僅差だった。

「爆発していたら大惨事となったろう」

 ほほえましいニュースばかりではない。新幹線を舞台にした物騒な出来事もあった。スピードが80キロ以下に減速されると爆発する爆弾を仕掛けた……というのは、映画「新幹線大爆破」の話だが、実際に爆発物騒動は何度か起きている。小和田次郎こと、共同通信社会部デスクだった原寿雄(1925~2017)が記している。

夜、新幹線ひかり21号の一等車でダイナマイト三本と時計を装置した「源氏物語」の本が発見され大騒ぎ。車掌が名古屋で現物を警察に引渡し、不発と判明したが、もし爆発していたら大惨事となったろう。(デスク日記=1967年4月15日)

 事件は翌68年2月19日に急展開する。小和田が同日の日記に書き留めている。「東海道新幹線ひかり号の爆破未遂事件は、福島の一少年(18)が犯行を自供、一一ヵ月ぶりに解決した」。翌20日の読売新聞朝刊によれば、遺留物の指紋が決め手になったという。少年は調べに対し、「盗んだダイナマイトで装置をつくり、高校の修学旅行の途中、東京駅で仕掛けた。時速二百五十キロで走る新幹線で、爆発が起これば、たくさんの人が死ぬだろうと思った」と供述したという。

 3年後の70年9月11日の昼過ぎには、新大阪駅の駅長室に男の低い声で「きょう佐藤総理が着くのを知っている。襲撃のためダイナマイトを用意した」との電話があった。同駅は警察官30人が警戒のため出動する事態に(1970年9月11日読売新聞夕刊)。

 実際、首相の佐藤栄作はこの日、大阪万博閉会式などに出席するため午後1時20分東京駅発の「ひかり45号」に乗っていた。ところがこの騒ぎは、佐藤や同行秘書の日記には出てこない。心配させないよう、この時点では当局が知らせていなかったのだろうか。

「記者団と話をしていただけませんか」「やりません」

 新幹線内は、政界要人と同行記者団による即席の記者会見場にもなってきた。いわゆる“ハコ乗り”だ。ここでも佐藤が登場する。

大阪・中之島公会堂での自民演説会へ行く車中会見で、佐藤は共和製糖事件の“捜査権への介入”批判についていたって高姿勢、「真意はあの発言のとおりだ。新聞でも取上げられているではないか」と語る。(デスク日記=1967年1月6日)

 この頃、政界には“黒い霧”と呼ばれた不祥事が相次ぎ、政府・与党に厳しい目が注がれていた。このくだり、当の佐藤の日記では「十一時新幹線で下阪。途中、車中会見」とあっさりしていて、記者とのやり取りの中身には触れていない。

 佐藤の新幹線内での記者会見と言えば、首席秘書官だった楠田実(1924~2003)がこんなエピソードを紹介している。

一四時、東京駅発、大阪へ向かう。お茶のあとで、楠田「記者団と話をしていただけませんか」。総理「やりません」。楠田「しかし、官房長官が記者クラブと約束されたそうですが」。総理「官房長官が何と言おうと、私はやりません」。亀岡副長官が頼む。総理「キミの言うことはきかんよ」。こんどは西村英一氏。総理「いいから放っておけよ」。てんで取りつくしまなし。(楠田実日記=1968年5月2日)

 政治家は永田町を離れると口が滑らかになり、番記者にとって外遊先や遊説先は重要な発言を引き出すチャンスと言われる。だが、首相退任の記者会見で記者たちを締め出すなどマスコミ嫌いで知られた佐藤に、この法則は当てはまらなかったようだ。

引用文献
大魔神の優勝日記(佐々木主浩&ニッポン放送スポーツ部、扶桑社、1998年)
デスク日記4・5―マスコミと歴史(小和田次郎、みすず書房、1968・69年)
佐藤栄作日記 第三・四巻(伊藤隆監修、朝日新聞社、1997・98年)
楠田実日記 佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日(和田純編・校訂、五百旗頭真編・解題、中央公論新社、2001年)

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