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ブラック・アングル山藤章二さん死去 「週刊朝日」を後ろから読ませた

J-CASTニュース / 2024年10月1日 10時47分

ブラック・アングル山藤章二さん死去 「週刊朝日」を後ろから読ませた

山藤章二さん「昭和よ、」(岩波書店)より

政治や社会現象をネタにした世相風刺や辛口似顔絵で知られたイラストレーターの山藤章二さんが2024年9月30日、老衰のため死去した。87歳だった。

40年余りにわたって『週刊朝日』の巻末に「ブラック・アングル」を連載し、「週刊朝日を後ろから読ませる男」と言われた。

「スポーツはダメ、特技なし」

1937年、東京・目黒生まれ。4人きょうだいの末っ子。父は目黒駅の助役だったが、山藤さんが生まれてまもなく病死、母が目黒駅の売店で働いて一家を支えた。

小中学校のころは、「成績は中の上、スポーツはダメ、特技なし」という平凡な子供だったという。もっぱらラジオで落語やコント番組を聴いてすごす。高校生になって、部活が必修になり、たまたま美術部の部室をのぞいたら、一心不乱に石膏像のデッサンをしている先輩がいた。作品の素晴らしさに驚嘆し、それまで芸術に何の関心もなかったが、衝動的に入部。見よう見まねで絵を描き始める。米国の社会派画家、ベン・シャーンの作品を知り、好きになった。

「将来、絵では食えないが、絵に近い図案なら食える」といわれ、武蔵野美校(現在の武蔵野美術大)デザイン科に。学生時代はコンテスト挑戦に明け暮れ、若手の登竜門といわれていた日本宣伝美術会展で特選(次席)。グランプリは後に有名になる多摩美術大学生の和田誠さんだった。大阪国際フェスティバルの海外向けポスター・コンテストでは特賞を受賞した。

卒業後は松下電器の宣伝部門の子会社、ナショナル宣伝研究所に入る。すぐに広告電通賞制作者賞、毎日商業デザイン賞、東京アートディレクターズクラブ賞銅賞などを次々と受賞、気鋭のクリエーターとして数年間活躍したのちフリーに。松本清張や寺山修司の連載で挿絵を担当する。

当時の心境について、自著でこう記している。

「どんな注文にも応じ、一応それらしい絵になるからスポンサーはパスし、依頼主は喜んだ。しかし私の心の中では描けば描くほど不愉快になる・・・どれもこれもが『俺の絵』ではないからだ・・・早く『俺の絵』を見つけて、世の中にアピールしなきゃ、その思いばかりが強くなってゆく」(『昭和史ときどき自分史』、岩波書店)

野坂昭如さんと、「ボケとツッコミ」

69年、『週刊文春』で野坂昭如さんの連載エッセイ「エロトピア」の挿絵を引き受けたことが転機になった。当時、人気爆発中の野坂さんと、「ボケとツッコミ」のようにイラストで対抗する。作家そのものも俎上に載せ、デフォルメした似顔絵で茶化した。おまけに辛辣な文章まで添える。「挿絵画家」としての領分を超えた試みを、野坂さんは受け入れ、面白がった。「ただただ毎週苦笑するしかないのである」と。

この「エロトピア」で試みた新しい作風が、70年「講談社出版文化賞・さしえ賞」、71年「文藝春秋漫画賞」に輝く。いっきに注目度が高まり、仕事が増えた。夕刊フジで人気作家が100回連載するエッセイのイラスト、テレビのクイズ番組や雑誌での対談などなど。

極めつけが76年からスタートした「ブラック・アングル」だった。ちょうどロッキード事件の年。主役の田中角栄、小佐野賢治、児玉誉志夫の三氏の似顔絵に「仲よき事は美しき哉 実篤」と入れた。武者小路実篤本人の怒っている顔も。タイムリーな「世相戯画」として喝采を浴びる。折々の作品は単行本としてまとめられ、順次刊行された。評論家の飯沢匡氏は解説で、「(日本の漫画史の中で)これほど絵が上手でしかも品格があり、才知に長けた天才的な人は見当たらないのではないかと思わる」(『ブラック・アングル10年ベッスト&オール』朝日新聞社刊)と絶賛した。

「とんち教室」「話の泉」にかじりつく

山藤さんは、『自分史ときどき昭和史』の中で成功の理由を自己分析している。

ひとつは「器用」。「描く前に、こういうタッチ描こうとすると、ほぼそれに近い絵が描ける」。絵のスタイルも「切り絵」「インクスポット絵」など10種類ほど持っている。そこに「言葉」が加わる。「落語」「漫才」「俳句」「和歌」「川柳」「春歌」「都々逸」「民謡」「とんち」「芝居の台詞」「ごろ合わせ」「駄洒落」などにはほとんどすべて対応できる知識と技量がある。実際、落語、俳句、川柳、駄じゃれなどに関する著作もある。デザイン科出身なので「レタリング」も得意だ。ありとあらゆるスタイルの文字が書ける。

加えて一番の才能は「耳」だという。子供のころの唯一の娯楽がラジオだった世代。「二十の扉」「とんち教室」「話の泉」などの人気番組にかじりついた。そこで鍛えた「耳」が、面白い話や、すばらしい言葉を聞き逃さない。

自身の性格も幸いした。熱烈なタイガーズ・ファンという一点を除いては、過度に怒ったり、嫉妬したりしない。クールな観察眼と、対象との距離感が必要な風刺画の世界に適していた。幼少時からの「夢想癖」もプラスになった。

「似顔絵塾」で革命起こす

山藤さんの最大の業績とは何か。『私の死亡記事』(文春文庫)の中で、こう記している。

「山藤の功績で最も風化しないのが、『似顔絵塾』だろう。アマチュアの中の異才を多数発掘し、それによって似顔絵の概念を大きく変えた」

81年から『週刊朝日』誌上で開講した「山藤章二の似顔絵塾」。素人の似顔絵投稿から山藤塾長が合格作品を選ぶ。腕達者の中からプロになった人も。全国各地でしばしば塾生たちの作品展も開かれている。

「この塾は日本の似顔絵史に革命を起こした。似顔絵を『たかが』から、『されど』に変えた・・・ハガキ一枚の似顔絵に、これほどの前衛性、独創性、批判性、滑稽性があろうとは、だれも気付いてはいなかったはずだ」

かつては「俺の絵」を探し、創り上げることに悶々としていた山藤さん。「ブラック・アングル」で「俺の絵」のスタイルを確立し、「似顔絵塾」を通して多くの弟子や後継者を生み出す。気がつくと「俺の絵」はいつのまにか「俺」を超えて、新しい流派、文化ジャンルになっていた。

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