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「原爆犠牲者の顔を想像できるような『語り』を」…核廃絶へ若者ら決意新た

読売新聞 / 2024年10月14日 17時19分

研修会で高校生らと話をする被爆3世の林田さん(12日午後、長崎市で)=木佐貫冬星撮影

歴史の証人 被団協平和賞<下>

 いつの日か、歴史の証人としての被爆者はこの世から姿を消すだろう――。

 ノーベル賞委員会は11日、被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」を平和賞に選んだ理由の中でそう言及した。

 原爆投下から80年となる2025年には、被爆者健康手帳を持つ人が初めて10万人を下回る可能性がある。この10年間で約8万6000人減った。目の前に迫る「被爆者なき時代」に、あの日の惨禍をどう伝え、核廃絶につなげていけばよいのだろうか。

 「世界には核兵器は『ヒーロー』という感覚を持っている人もいる。被爆者は、そういう視点を変えたいと、ずっと訴えてきた」

 平和賞の発表から一夜明けた12日。被爆3世の林田光弘さん(32)は長崎県庁で開いた平和を考える研修会で、長崎、広島の高校生17人に語りかけた。

 祖父が長崎で被爆した林田さんは、高校時代から核廃絶に向けた署名活動などを行ってきた。東京の大学に進学し、被団協代表委員の田中熙巳てるみさん(92)(埼玉県新座市)と出会った。

 田中さんは13歳で長崎の爆心地から3・2キロで被爆し、親族5人を亡くした。林田さんは、田中さんと交流を深める中、本来忘れたいはずの被爆体験を訴え続ける強い志に心を動かされた。被団協などが展開した核廃絶を求める国際署名活動で先頭に立ち、20年末までの4年余りで1300万人を超える署名を集めた。

 21年に長崎に戻り、地元を拠点に、平和教育を展開する一般社団法人を設立。被爆遺構のガイドや教育機関での出前授業などに力を入れている。

 「平和賞を機に、被爆者への関心は高まるはず。平和や核廃絶を自分たちのこととして身近に考え続けられる人を増やしていきたい」と決意を新たにした。

顔浮かぶ「語り」へ

 被爆者が懸命に訴える姿には人を動かす力がある。

 核の脅威を訴える一般社団法人「かたわら」(横浜市)の代表理事、高橋悠太さん(24)は中学3年の時、すでに90歳近かった坪井すなおさん(2021年に96歳で死去)が、全身で原爆被害の惨状を訴える姿とその熱量に圧倒された。

 坪井さんの体験を2日間にわたって直接聞き取り、高校2年の時に冊子を作成した。普段は背筋を伸ばして語る坪井さんが、自らの受けた結婚差別を話す時には小さく縮こまって涙をぽろぽろ流す姿を見て、原爆は直接の被害だけでなく、人々の心にも深い傷を与え続けることを実感した。

 数日前、地下鉄の車内で、女子高校生らが「グロいの嫌なんだよね、広島の(平和記念)資料館とか」と話すのを耳にし、ショックを受けた。その直後に飛び込んできた平和賞のニュース。「原爆で犠牲となった人々の顔を想像できるような『語り』をしていかなければ」と身が引き締まった。

国際フォーラム計画

 「核なき世界」へと近づくためには、世代を超え、国境を超えた取り組みの広がりが欠かせない。

 初期の反核運動を率いて「反核運動の父」と呼ばれた森滝市郎いちろうさん(1994年に92歳で死去)の次女、春子さん(85)=写真=は来秋、日本だけでなく冷戦下の核実験などで被害を受けた人々を世界各国から広島に招く「世界核被害者フォーラム」の開催を計画している。

 被爆で右目を失明した市郎さんは、核実験が行われるたび、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑を背に座り込んだ。その回数は約500回。海外メディアから理由を聞かれ、「私は犠牲者の魂を背負っている」と答えた父の姿が、春子さんの胸に残る。

 春子さんは「平和賞を喜びで終わらせてはいけない。先人たちの血のにじむような努力を忘れず、今こそ世界に核の恐ろしさを知ってもらい、核廃絶の道を歩まなければ」と力を込めた。

 被団協は1956年8月の結成宣言でうたう。

 〈人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません〉

(この連載は、広島総局 小松大騎、中安瞳、山下佳穂、長崎支局 勢島康士朗、上山敬之が担当しました)

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