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「勤労感謝の日」となった今もかたちを変えて受け継がれる宮中祭祀「新嘗祭」…天皇陛下が神々と飲食を共にされ、実りに感謝

読売新聞 / 2024年11月12日 5時0分

 天皇陛下は毎年11月23日、新穀を神々にささげ、実りに感謝する「新嘗祭にいなめさい」に臨まれる。皇居で年間60回以上行われる宮中祭祀さいしの中で、最も重要とされる行事だ。「勤労感謝の日」となった今も、かたちを変えながらその精神は受け継がれている。

11月23日「勤労感謝の日」の由来

 11月23日午後6時、皇居・宮中三殿の西側に位置する「神嘉殿しんかでん」。純白の絹製の装束「御祭服ごさいふく」を身にまとった陛下が中央部の母屋に入られると、装束姿の宮内庁職員たちが次々と「神饌しんせん」を運び入れていく。

 神饌とは、全国各地の新米、あわ、干物、果物などのこと。陛下は竹製の箸でそれらを一つずつかしわの葉の皿に取り分け、1時間以上かけて神前に供えられる。

 続いて、神々がいる「神座しんざ」に拝礼し、五穀豊穣ほうじょうに感謝して国の安寧を祈られる。さらに、神饌と同じ米と粟、酒を口にされる。陛下が神々と飲食を共にされるこの瞬間が、新嘗祭のクライマックスとされる。

 神前の儀式は、灯明のあかりだけを頼りに非公開で行われる。「よいの儀」と「あかつきの儀」に分かれ、翌24日未明まで続く。陛下はこの間、ほぼ正座で臨まれ、「采女うねめ」と呼ばれる手伝いの女性2人以外は、陛下の側近も立ち会えない。

神話時代から 応仁の乱で一時中断

 新嘗祭の歴史は古く、神話時代の古事記や日本書紀には、天照大神あまてらすおおみかみが「新嘗」を行う記述が登場する。稲作が広まった弥生時代には、収穫を祝う祭儀が行われていた可能性がある。天皇が新嘗祭を執り行うかたちは、飛鳥時代の天武天皇の治世に制度化された。その後、室町時代の応仁の乱で中断したが、約300年後、江戸時代中期の桜町天皇(1720~50年)の時代に本格的に再興された。

 国学院大の笹生衛教授(神道史)は「歴代天皇は新嘗祭で非礼や不都合があれば、国内でたたり(災害)が起こると、緊張感を持っていた。無事に行うことが、国を治める上で、最高のリスク管理だった」と語る。

 新嘗祭の日は1873年(明治6年)、法令で1年に8日設けられた祝祭日の一つとして、祭日になった。ほかの祭日も皇室の祭祀の日で、天皇中心の中央集権国家を目指す明治政府の意向が反映されたとみられる。

 だが、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が宗教色の強い祝祭日の改廃を指示し、存続の危機に。日付を残し、名称だけを改めようと「新穀祭」や「新穀感謝の日」とする案もあった。

 結局、1948年制定の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)で、11月23日は国民がみなで生産と働きに感謝し合う「勤労感謝の日」として残ることになった。

 国民の祝日となって76年。各地では、働く人への感謝を示す様々な取り組みが広がる。

働く人ねぎらう

 全国漁業協同組合連合会は、栄養価の高いカキで疲れを癒やしてほしいと「牡蠣かきの日」と制定。いずれもネギが特産の埼玉県深谷市や秋田県能代市は、「ねぎらい」の意味を込め、花束ならぬ「ねぎ束」を贈る運動を展開している。

 家族やパートナーに感謝し、家事に共に取り組む機会にする「共家事の日」と定めたのは福井県。同県は共働きの割合が全国有数で、女性に偏りがちな家事の負担を減らす狙いという。

 感謝の表し方は多様化する一方で、祝日の由来は忘れずにいたいもの。皇室の伝統文化に詳しい、京都産業大の所功名誉教授によると、人間に不可欠な食物を「たべもの」と言う語源は神々からの「賜り物」で、その考えを年中行事にしたのが新嘗祭だ。所氏は「自然がもたらす恵みに感謝する日にしてほしい」と話している。

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