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軍人の妻から国民と交流された百合子さま、三笠宮さまの伝記編集にも協力「孫に伝えたいという思い感じた」

読売新聞 / 2024年11月15日 20時50分

三笠宮崇仁さまと百合子さま(2006年7月撮影)

 15日に亡くなられた三笠宮妃百合子さま(101)は、皇族として昭和、平成、令和の三つの時代を生き抜かれた。皇族軍人の妻として戦争と向き合った戦時中から一転、戦後は三笠宮さまとともに国民の間に分け入って交流を重ねられた。

終戦前の緊張

 終戦前日の1945年8月14日、陸軍の皇族軍人だった三笠宮さまのもとに青年将校たちが詰めかけた。終戦を望む三笠宮さまと戦争継続を訴える青年将校との間で激論が交わされた。

 「今にもピストルが飛び交うかと思うようなすごい怖い雰囲気で」。百合子さまは三笠宮さまの伝記(2022年12月刊行)に収録された「オーラルヒストリー」で、こう振り返られた。

 宮邸が空襲で焼失し、1970年に赤坂御用地にある今の三笠宮邸に移るまで、東京・品川の民家で5人のお子さま方を育てられた。身の回りのお世話をする職員も少なく、泥棒に入られたこともあった。

 百合子さまは、戦後、古代オリエント学者になった三笠宮さまを献身的に支え、夜中までノートを書き写したり、資料を整理したりされた。東京女子大元学長の湊晶子さん(92)は、同大で教べんを執った三笠宮さまの助手を務めた。「百合子がいたのでここまで来られた」。三笠宮さまは常に感謝の言葉を口にされていたという。湊さんは「とてもすてきな夫婦だった」と思い出を語った。

母子福祉思い

 百合子さまは母子保健にも力を注がれた。2010年まで62年間にわたって恩賜財団母子愛育会の総裁を務め、健康づくりや子育て支援の活動を後押しされた。同会会長で元宮内庁長官の羽毛田信吾さん(82)は、百合子さまが総裁退任後も愛育会の活動を気にかけ、様々な質問を寄せられたことを覚えている。「終戦直後から母子福祉の向上に尽くされてきた思いが伝わってきた」と話す。

 百合子さまは31年間、和装文化の普及・啓発に取り組む「民族衣裳いしょう文化普及協会」の名誉総裁も務め、毎年、功労者の表彰式に出席された。同協会の水島博子さん(85)によると、染め職人の藍色に染まった手元を見た百合子さまは、「ご苦労がわかるわ」と優しく声をかけられた。「着物に関する幅広い知識を持ち、『扇の要』のような存在でした」としのんだ。

記憶力に驚き

 02年に三男高円宮さま、12年に長男寛仁ともひとさま、14年に次男桂宮さまを亡くし、16年には75年連れ添った三笠宮さまに先立たれた。

 三笠宮さまの伝記の編集に携わった政治経済研究所研究員の舟橋正真さん(42)は21年、百合子さまの孫の彬子あきこさまらと計11回のインタビューを行った。事前に質問状を送ると、百合子さまは日記や育児日誌を見返して、事実関係を確認して臨まれた。舟橋さんは記憶力の確かさに驚かされた。

 百合子さまは、装束や儀式など皇室の伝統についても話された。舟橋さんは、「孫に皇室の文化や三笠宮さまの事績を伝えたいという思いを感じた」という。

 宮内庁関係者によると、百合子さまは晩年も、毎朝複数の新聞を読むことを日課とし、天気の良い日は庭で日光浴をするなどして穏やかに過ごされた。なにより孫とひ孫の成長を楽しみにされていた。

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