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日露戦争のロシア兵捕虜、釣りや買い物楽しむ優雅な暮らし…福井県に1枚だけ残る集合写真

読売新聞 / 2024年11月18日 15時25分

捕虜が生活した誠照寺。写真はこの前で撮影されたとみられる(福井県鯖江市で)

地元写真館が保存

 1895年創業の福井県鯖江市の恵美写真館に、ひげ面の男たちの集合写真が残る。彼らは1904年に始まった日露戦争で、捕虜となって鯖江にやって来たロシア兵だ。浄土真宗・誠照じょうしょう寺を宿舎とし、釣りや買い物を楽しみながら、約8か月後に帰国した。今年は日露開戦120年。市まなべの館の藤田彩学芸員(36)は「ロシア兵捕虜が鯖江にいたことは今や市民に忘れ去られているが、その写真は貴重な歴史的資料」と語る。(辰巳昌宏)

ガラス乾板

 日露戦争では、7万人以上のロシア兵が捕虜となり、松山や金沢など全国29か所に収容された。鯖江もその一つで、05年4月に開設された。当時の軍の資料では、捕虜は将校、下士官ら約40人とされる。ただ、誠照寺史は約100人と記録する。どの戦場から送られてきたかはわかっていない。

 ロシア兵の写真は、写真館2代目の恵美善之助が撮影した。善之助は、国登録有形文化財となっている洋風造りのスタジオを建て、撮影を依頼されると、鑑札(証明書)を持って人力車で各地を回ったという。

 誠照寺阿弥陀堂とみられる前で、日本人らしい人を中心にして周囲に捕虜が3列に並んだ計21人が写る。ゆったりとした穏やかな表情だ。フィルムカメラが普及する前で、薬剤を塗ったガラス乾板が使われた。撮影日時は記載されていない。捕虜は12月初旬に帰国しているため、05年中の撮影とみられる。

 善之助の孫で4代目の恵美一夫さん(85)は「捕虜を撮ったのはこの1枚だけで、暗室の奥に置いてあった。軍人だった父には戦後も、『写真のことはしゃべるな。目立たないように隠しておけ』と言われました」と話す。一夫さん自身が原板から写真を作ったのは昭和の終わり頃だったという。

第三十六連隊

 日露戦争が始まる8年前、陸軍歩兵第三十六連隊が鯖江に創設された。鯖江が収容先に選ばれたのは、軍隊の町だったことが影響している。藤田学芸員は「近くに憲兵隊が駐屯して鯖江駅もあり、監視や警備、輸送がしやすかった」と説明。付近で収容所となりうる大きな建物と言えば誠照寺だった。「明治時代半ば、町の人が威信をかけて寺を再建しており、立派な建物をロシア人に見せたかった気持ちがあったのかもしれない」と想像する。

 誠照寺は第三十六連隊と関係があった。軍人には宗教的信念が不可欠として、当時の上人らが毎月第1、3日曜に布教を施し、戦う覚悟を説いた。第三十六連隊が旅順(中国東北部)攻撃で甚大な被害を出しながら、勇名をとどろかせたのは、「信仰による不抜の精神力による」(誠照寺史)としている。

外交上の意図も

 捕虜はどんな生活をしていたのか。当時の新聞「北日本」がその様子を報じている。

 05年6月4日付によると、料亭に西洋料理を作らせていたが、クキク中佐は料理好きで、部下らと自炊を始めた。「俘虜ふりょは殊の外 口にかなひしといふ」と書く。和服を注文し、川での釣りを好んだほか、50円を出して東京からオルガンを買い求めた。

 10日付では、列車で福井を訪れ、足羽山へ登り、藤島神社へ参拝。帽子やこうもり傘、ハンカチ、美人絵はがき、指輪、食パンを購入するなど、優雅とも言える暮らしぶりだった。他の収容所であった脱走騒ぎや捕虜の死亡もなかった。

 捕虜がこのような生活を享受できたのは、明治政府の外交上の意図があったとされる。藤田学芸員は「捕虜を大切に扱うことで、日本は文明国であることをアピールしたかった。肉親や親族を戦争で失ってロシアに反感を持つ人がいてもおかしくなかった時代、鯖江で捕虜とのトラブルがあったとの記録もない。鯖江の町も近代国家の一翼を担っていた」と説明する。

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