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赤穂義士・堀部安兵衛、討ち入り前の決意「何之心障も無之」…所在不明の親族あて書状と書付確認

読売新聞 / 2024年12月2日 15時30分

所在が確認された堀部安兵衛の自筆書状。親族に別れを伝えている(兵庫県豊岡市で)

 「忠臣蔵」の題材になった赤穂事件に参加した四十七士の一人、堀部安兵衛が討ち入りの直前に記した書状など史料2点が、兵庫県豊岡市内で確認された。昭和初期の書籍で紹介されているが、その後、所在不明になっていた。(熊谷暢聡)

 安兵衛は越後(新潟県)の新発田しばた藩士の家に生まれ、赤穂藩士・堀部弥兵衛の養子となった。赤穂事件では討ち入りを強硬に主張したとされ、思いを遂げた後、1703年に切腹した。

 史料は、安兵衛が実家の親族10人に宛てた書状と、堀部家の養子になった経緯を記した書付かきつけ。四十七士の史料に詳しい赤穂大石神社(赤穂市)の非常勤学芸員・佐藤誠さんらが、筆跡や内容から安兵衛の直筆と判断した。

 書状は縦17・2センチ、横171センチの紙に、主君・浅野内匠頭たくみのかみの切腹以後の経緯を書き連ね、今生の別れを告げる内容。討ち入りのほぼ1か月前の11月20日付で、主家再興の望みがついえ、「此上ハ何之心障も無之、時節ニ罷成候間、兼而之一決弥相催シ候、相談堅ク申合……」(この上は何の気がかりもなくなり、かねてからの目的の実行を促すことを強く約束し……)と、討ち入りの決意をほのめかしている。

 一緒に保管されていた書付は縦19・2センチ、横12・5センチの冊子状。1695年に記され、いとこ2人に宛てて、義父となる弥兵衛との出会いから養子入りまでの経緯を86ページにわたりつづっている。

 ともに1930年代に刊行された書籍で紹介されていた。現在は、豊岡市内の郷土史料研究者が所蔵。同市立歴史博物館が依頼を受けて、佐藤さんと調査を進めていた。

 佐藤さんによると、安兵衛は「一言で言うなら、真面目できちょうめんな性格」だといい、直筆の文書は全国で約20点確認されている。「どちらも書かれている内容は安兵衛の行動と矛盾がなく、交友関係のうかがえる史料として貴重だ」と話している。

 書状と書付は1日から同館総合学習室(観覧無料)で展示が始まった。同市出石町に行く途中で立ち寄ったという鳥取市の男性(63)と妻(60)は「堀部安兵衛の名前は知っていたが、養子とは知らなかった。書状も泣かせる内容で思いが伝わってきます」と話していた。17日まで。

 ◆赤穂事件=赤穂藩主・浅野内匠頭が元禄14年(1701年)に江戸城松の廊下で吉良上野介(こうずけのすけ)を切りつけ、切腹になったことを発端とした敵討ち。赤穂藩家老の大石内蔵助(くらのすけ)、堀部安兵衛ら47人が、元禄15年12月14日に吉良邸へ討ち入り、上野介の首を取った。事件を題材にした「仮名手本忠臣蔵」は歌舞伎などの人気演目になっている。

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