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ケロイド見せて実相語った「原爆一号」吉川清さん、被爆者運動を先導した先人の歩み…被団協30人オスロへ

読売新聞 / 2024年12月3日 10時39分

ノーベル平和賞授賞式への出発を前に記者会見で笑顔を見せる被団協の田中煕巳代表委員(中央)ら(2日午後、東京都千代田区で)

[ノーモアヒバクシャ<被団協に平和賞>]

 ノルウェー・オスロで10日、被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」がノーベル平和賞を受賞する。被爆体験を語ることがタブー視されていた時代に、自らのケロイドをさらし、被爆者運動を先導した人がいた。「原爆一号」と呼ばれた吉川きっかわ清さん(1986年に74歳で死去)。その行動が被団協結成の源流となった。受賞は、先人の歩みに光が当たる機会にもなる。

「原爆一号の店」開店

 吉川さんは、爆心地から約1・5キロにあった広島市内の自宅で被爆した。夜勤を終えて帰宅し、玄関から入ろうとした瞬間だった。熱線を浴び、背中と両腕の皮膚が焼けただれ、ケロイドとなった。

 皮膚移植手術は、5年間で16回。1947年4月、入院中の病院を訪れた米国視察団の一人が吉川さんを見て発言した。「アトミックボム(原爆) ヴィクティム(被害者) ナンバーワン」。その言葉を日本で報じる際に「原爆一号」と訳されたという。

 吉川さんは妻の生美さん(2013年に92歳で死去)と51年春頃、原爆ドームそばのバラック小屋で土産物店「原爆一号の店」を始めた。店を訪れた外国人の前で上着を脱ぎ、ケロイドの写真を撮らせた。修学旅行の小学生には被爆体験を語った。多くの被爆者が差別や偏見を恐れて口をつぐんでいた時代。「原爆を売り物にするな」。周囲からは痛烈な批判が浴びせられたが、揺らがなかった。

被爆の実相を伝えるとの信念はすごかった。金もうけをしようという姿勢はみじんもなかった」。中学卒業後に店でアルバイトをしていた高橋史絵さん(87)(広島市)は証言する。

 51年に広島初の被爆者組織「原爆傷害者更生会」を結成。さらに翌年、原爆詩人の峠三吉さん(1917~53年)らと「原爆被害者の会」を作った。各地の被爆者組織の発足につながり、4年後の56年、被団協が誕生した。

 吉川さんは77年に脳卒中で倒れた。被爆の実相を伝えねばとの信念は、生美さんや高橋さん、高橋さんの夫の昭博さん(2011年に80歳で死去)らが引き継いだ。昭博さんは広島平和記念資料館の館長も務め、国内外で3000回以上の証言を重ねた。

 昭博さんと生美さんは相次いで亡くなった。高橋さんも70歳頃から次々とがんが見つかり、吉川さんの人柄や功績を公の場で伝える機会は減っている。

 そんな中で届いた平和賞受賞のニュース。「多くの人が、草創期に体を張った被爆者の苦労に思いをはせる機会になればうれしい」。高橋さんは10日の授賞式を心待ちにしている。

被団協役員ら出発前に会見「核廃絶のきっかけに」

 ノーベル平和賞授賞式への出発を前に、被団協の役員らは2日、東京都内で記者会見した。式で講演を行う田中熙巳てるみ・代表委員(92)は「核兵器廃絶に向けて大きな運動が起こるきっかけになってくれたら良い」と意気込みを語った。

 長崎で被爆した田中さんはともに被団協を支えた多くの被爆者たちが亡くなっていることに触れ、「(講演の原稿を)書くときに『こうだったよね』と相談する人がいないのがさみしい、悔しい思いがした」と振り返った。

 被団協によると、健康上の理由から1人が欠席となり、オスロには被爆者ら30人の代表団が赴く。

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