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無名芸人なすび「私は馬鹿になることを決めました」…裸一つ、懸賞だけで生き延びた1年2か月

読売新聞 / 2024年12月16日 10時15分

懸賞で当選したステーキを焼き、笑顔を見せるなすびさん(1998年)=日本テレビ提供

 目隠しを外すと、6畳一間のアパートだった。ちゃぶ台に、はがきが積まれ、ラックには雑誌が並んでいた。「いったい何をやらされるんだ」

 1998年1月、型破りな企画で人気のテレビ番組「電波少年」で新コーナーが始まった。挑戦者に選ばれたのが無名のお笑い芸人、なすびさん(49)=当時22歳=。

 テーマが明かされる。「人は懸賞だけで生きられるのか」。食料も着る物も当選して入手しろという。裸になるよう命じられ、こう告げられた。「テスト企画だから、放送されるかどうかもわからない」

 雑誌をめくり、懸賞を探す。200枚のはがきにペンを走らせる日々。その姿が毎週放映され、人気者になるなんて思ってもいなかった。もちろん、孤独な極限生活が1年2か月超に及ぶことも、知らない。(社会部 押田健太)

人生一変、たった1回のくじ引き

 たった1回のくじ引きが人生を一変させた。

 大雪が降った1998年1月15日、東京都内のビルで、日本テレビの人気バラエティー番組「電波少年」のオーディションが行われていた。集まったお笑い芸人20人ほどの中に、なすびさん(49)もいた。

 「運だけが必要な企画だから、これで出演者を決めます」。差し出された抽選箱から順番に三角くじを取っていき、一斉に開く。当たりの文字が見えた瞬間、「奇跡が起きた」と思った。

 国内外の著名な政治家や芸能人を「アポなし」で直撃し、海外をヒッチハイクで巡る。過激な企画で人気だった番組への出演は、有名になる大チャンスだった。

ドッグフードで飢えしのぎ、コメ当たり「当選の舞い」

 新企画の内容は雑誌やラジオの懸賞に応募し、当てた賞品で暮らす「懸賞生活」。放送されないかもしれないと言われたが、スタッフに顔を売れればいいと思っていた。

 当選品の総額が100万円に達したら、部屋を出られるルール。簡易型携帯電話(PHS)は取り上げられ、外部との接触は禁じられた。精神状態を確かめるため毎日、日記を書くよう指示された。

 〈私は馬鹿ばかになることを心に決めました〉。朝、ビデオカメラのスイッチを入れ、黙々とはがきに向かう。初当選は半月後。届いたゼリーの詰め合わせに喜びを爆発させた。〈生きてきた中で一番うれしい〉

 これ以降、乾パンの支給はなくなった。食べ物が途絶えた時は、ドッグフードを口にして飢えをしのいだ。「トントン」。玄関をノックする音がすると、胸が高鳴る。当選品で一番うれしかったのがコメ。狂喜乱舞する姿は「当選の舞」と名付けられた。

 「笑わせようとなんて一切思っていない。太古の昔から、人間は生きられる喜びを実感すると、歌い、踊る。感情が爆発すると、自然とそうなるんですよ」

 本名は浜津智明。福島県警の警察官の父と専業主婦の母の間に、長男として生まれた。まじめで勉強ができた。物心ついた頃から自分の細長い顔が、嫌いだった。

 小学校の頃のあだ名は、漫画「キン肉マン」に登場する顔の長いキャラクター「ラーメンマン」。からかわれ、仲間外れにされた。ある日、大好きなお笑い番組を見ていてひらめいた。

 「バカなことをやれば状況が変わるかも」。休み時間、志村けんさんのギャグ「アイーン」を披露した。面白いやつだと思われ、徐々に友達が増えた。

 父親の異動で小学校だけで2回転校した。いじめられ、笑わせて仲良くなるという繰り返し。「人を楽しませれば、周りも自分も幸せになれる」と考えるようになった。

 高校卒業時、両親に「芸能界を目指したい」と打ち明けた。憧れは渥美清さんのような喜劇俳優。大反対され、東京の専修大に進学した。諦めきれず、隠れてお笑いのオーディションを受け続けた。

 「お前、すげえ顔しているな」。ほかの参加者から口々に言われた。幼い頃からコンプレックスだった長さ30センチほどの顔が、武器になると知った。アルバイト先で顔の形が「なすび」に似ていると言われ、名乗り始めた。

 ある日、芸能活動をしていることが親にばれる。母親は大学卒業までの活動を認めてくれたが、条件を出された。「裸でテレビに出ない」。だから、懸賞生活で服を脱ぐよう命じられた瞬間、真っ先に母親の顔が頭をよぎった。

一番つらかったのは

 外部と遮断された生活。自分の姿がお茶の間に流れ、20%超の高視聴率を連発しているなんて知らなかった。週刊誌に居場所がばれ、引っ越しを余儀なくされた時も、スタッフの「運気を変えるため」という言葉を信じた。

 いつでもやめることはできたが、途中で投げ出すのは嫌だった。生きていくのに必死で、いつしか撮影していることも頭から消えていた。

 一番つらかったのが、孤独に耐えることだった。話し相手は誰もいない。「死んだ方がましだ」と何度も思った。いきなり叫び、気付けばちゃぶ台をひっくり返していることもあった。

 「もうちょっと頑張れば抜け出せる」。精神を保つため、独り言が増えた。日記も助けになった。〈書くことで、自分が救われたり、癒やされたりしてんのかな〉と記した。

 懸賞生活が始まって11か月がたった98年12月、歓喜の瞬間が訪れた。当選総額が100万円を超えた。お祝いで渡航した韓国で、地獄が待っていた。告げられたのは企画の続行だった。

 「絶対に無理」。番組プロデューサーの土屋敏男さん(68)と3時間、押し問答が続いた。最後は自分が折れるしかなかった。「土屋さんが悪魔に見えた」。日本への旅費約8万円が新たなゴールに設定された。

 孤独な戦いは突如、終わりを告げる。99年3月、何の説明もないまま、アイマスクと大音量が流れるヘッドホンを着けられた。長時間移動し、目隠しを取ると小さな部屋にいた。続行を覚悟し、服を脱いで裸になった直後だった。

 四方の壁が外側に倒れ始める。急いで座布団で前を隠した。「おめでとう」。1000人の観客から、歓声と拍手がやまない。目標達成を祝うサプライズ演出。頭の中は真っ白で、座り込んだまま動けなかった。スタッフと一緒に船に乗り、日本に帰国していたことは後で知った。

 今では、あり得ない企画だった。土屋さんも「あの時代だからこそできたし、今なら視聴者に受け入れられないだろう」と語る。ゴールシーンは、11年続いた電波少年の中で、一番思い出に残っている。「演出家としては至福の時だった。驚異的な忍耐力を持つなすびでなければ、成功はなかった」と話す。

古里支援のため「僕が奇跡を」

 大学に復学し、両親にわびた。テレビに引っ張りだこになったが、求められるのは、服を脱ぐことや「当選の舞」といった懸賞生活の再現。やりたいのは裸で笑いをとることではない。原点に戻り、喜劇俳優を目指そうと思った。

 「不信感しかなかった」。バラエティーの神様とまで思っていた土屋さんと距離を置いた。舞台を中心に活動を始め、2002年には仲間と劇団「なす我儘がまま」を旗揚げ。福島県のテレビ局で旅番組を持たせてもらい、全59市町村をロケで回った。どこに行っても「応援している」と声をかけられ、「古里って特別な場所なんだな」と実感した。

 11年3月、仕事で千葉県にいた時、激しい揺れに襲われた。東日本大震災だった。生まれ育った地は原発事故にも見舞われた。ボランティアで役者仲間と福島県いわき市を訪ねたのは、1か月半後。一変した景色を前に、「自分にできることなんてあるのか」とうちひしがれた。

 ロケでお世話になった海辺の食堂は、津波で流されて跡形もない。店主の女性が暮らす避難所を訪ねた。「来てくれて、ありがとう」と抱きつかれ、「自分も笑顔や元気を生み出せる。一生かけて福島に関わろう」と思い直した。

 ボランティアで何度も訪れ、風評被害払拭ふっしょくのための活動を始めた。ある時、被災者に言われた。「福島のため、なすびさんしかできないことをやってほしい」。考え抜いた末、たどりついたのが世界最高峰、エベレスト(8848メートル)への挑戦だった。

 「登山の素人の僕が奇跡を成し遂げれば、原発事故からの再生や大震災からの復興という未知なる挑戦への力になるはずだと思った」

 登山隊を率いる国際山岳ガイドの近藤謙司さん(62)に協力してもらい、ネパールや国内で登山経験を重ねた。エベレスト登頂に必要な700万円の半分は、借金して用意した。

エベレストの頂から「福島は絶対に復興します」

 頂上まであと数時間だった。8700メートル地点にたどりついたが、酸素ボンベの残量が足りない。13年春の初挑戦は、途中で引き返さざるを得なかった。ふがいなさに、むせび泣いた。「売名行為」。インターネットでたたかれても、めげなかった。

 再挑戦のため、ネットで寄付を募るクラウドファンディング(CF)で費用の調達を始めた。集まりが悪く、600万円の目標額の達成は難しいと思われた。その時、救世主が現れた。

 懸賞生活以降、疎遠になっていた土屋さん。ネット番組で協力を呼びかけてくれ、一気に寄付が集まった。土屋さんは「借りがあると思っていた。電波少年の出演者は全面的に応援すると決めていた」と振り返る。

 面白さを追求した結果、なすびさんの心を傷つけてしまったという後悔があった。直接会ってその気持ちを伝え、頭を下げた。15年越しの雪解けだった。

 登頂への道は険しかった。2度目は雪崩、3度目はネパール大地震で中止。気持ちが折れかけたが、自分がやると決めた以上、諦めるわけにはいかなかった。

 16年5月、ようやくたどりついたエベレストの頂は、晴れ渡っていた。「ここが世界一高い場所なんだ」。涙がこぼれた。記録用のビデオカメラに語りかけた。

 「人間、やればできるんです。福島、そして東北は絶対に復興します」。羽織っていたのは「ふくしま」の文字が記された法被だった。

 今も付き合いがある近藤さんは「バカがつくほどまじめ。何でもひたすら一生懸命に頑張る姿が、人の心を動かす。スターではないけど、人を前向きにさせる」と語る。

「100億円積まれても二度とやらない」…でも

 東北だけではない。16年の熊本地震や今年の能登半島地震。災害があれば、ボランティアとして現地に赴く。根底にあるのは、大震災の時に支援してもらった「恩返し」をしたいという思い。

 孤独のつらさが身にしみたから被災者に寄り添えるのだと思う。懸賞生活は「100億円積まれたとしても、二度とやらない」。でも、あの苦しみを乗り越えたから今がある。一人でも多くの人を笑顔にしたい。自分のやり方で、地道にコツコツ進んでいく。

押田健太 おしだ・けんた 2017年に入社し、盛岡支局で東日本大震災の被災地を取材した。23年9月から東京社会部。「電波少年」は見ておらず、企画の過激さに時代の変化を感じた。懸賞に当たったことは一度もない。30歳。

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