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カーター元米大統領の理想主義、冷戦構造に翻弄…アラブ・イスラエル全面戦争回避は最大の功績

読売新聞 / 2024年12月31日 5時0分

 29日死去したジミー・カーター第39代米大統領は、南部ジョージア州のピーナツ農家出身の庶民派として、ウォーターゲート事件とベトナム戦争敗北の悪夢からさめやらない1970年代後半の米国に颯爽さっそうと登場した。満面にスマイルをたたえ、民主党政権として東西冷戦期にあえて「人権外交」を掲げたその実直な政治姿勢に、当時の世界が従来とは違う米大統領のスタイルと新たな時代の到来を感じとったことは間違いない。

 77年1月の就任演説でも、正義を行い、慈しみを愛することが神に求められているという旧約聖書ミカ書の一節を引用し、道徳的義務を強調、人権への米国の関与は絶対的なものと訴えた。その善意は中東和平への取り組みに向かい、78年、当時のサダト・エジプト大統領、ベギン・イスラエル首相とキャンプデービッドの山荘で、13日間の粘り強い交渉の末に達成したアラブ・イスラエル初の単独和平合意、翌年の平和条約調印に結実する。

 交渉に関与した元政府高官は「大統領は当初、中東の知識はゼロだったが、善意を持つ人間は話し合いで問題を解決できると深く信じていた」と著し、理想主義者カーター氏の存在が大きかったと述懐する。パレスチナ問題を先送りする矛盾を抱えた2国間和平合意だったが、繰り返されたアラブ・イスラエル全面戦争の危険性を事実上排除した意味で、カーター外交最大の功績と言える。

 しかし、その理想主義は結局、東西両陣営で矛盾ときしみが深化していた70年代末期の冷戦構造の激動に翻弄ほんろうされることになる。

 カーター氏の不運は、79年という世界を震撼しんかんさせ、その後の国際秩序を大きく左右した年が任期に重なったことだろう。イスラム革命で親米イランを失い、米大使館占拠人質事件では目隠しをされた米外交官の屈辱的光景がさらされた。そしてアフガン侵攻というソ連の南進。当時の米国の威信低下は、いまだに共和党から「弱腰外交」の典型例と批判される。

 理想では御せない国際政治の厳しい現実を突きつけられたカーター氏は80年の一般教書演説で、「ペルシャ湾支配への企ては軍事力を含むあらゆる手段で米国が駆逐する」と述べ、初めて湾岸死守を米国の国益と位置づけ、現米中央軍の前身「緊急展開部隊(RDF)」を創設する。カーター氏が初めて見せた「力の政策」が米国の中東軍事関与を深め、後の2001年米9・11同時テロや03年の強引なイラク戦争への系譜を作っていったことは苦い皮肉と言えよう。

 冷徹に見れば、1期4年に終わったカーター政権の歴史的使命は結局、強い米国再生を掲げ、東西冷戦を勝利に導くレーガン・ブッシュ両共和党政権の80年代に向けた序奏を奏でたということかもしれない。その意味では、大統領離任後、自らの理想と信念に従い、地域紛争解決や選挙監視などに世界を奔走、02年のノーベル平和賞受賞という形で評価された「元大統領」としての役回りこそ、カーター氏がその身上を存分に発揮した真の姿だったのだろう。

 この40年以上に及んだ「元大統領」時代、超大国米国はパワーの絶頂と威信凋落ちょうらくを経験し、世界への関与を弱め、「世界の警察官」役を放棄して自国第一主義を追求するようになった。そして世界では今、権威主義陣営の脅威に対し、自由と民主主義の真価が問われている。戦争も止まらない。人権と平和というカーター氏の掲げた理想が今こそ顧みられるべき時代に来ているように見える。(元アメリカ総局長 岡本道郎=帝京大教授)

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