1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

二条城の文化財、空襲に備え「疎開」の記録発見…狩野派の障壁画など1250点を大覚寺や滋賀へ

読売新聞 / 2025年1月29日 15時0分

二の丸御殿を飾る重要文化財の障壁画「竹林群虎図」(狩野甚之丞筆、元離宮二条城事務所提供)

 京都市の世界遺産・二条城で、戦局が悪化していた1945年に文化財を疎開させた経緯を記録した公文書が発見された。城内の米蔵に避難させた後、本土空襲の拡大で一部をさらに郊外へ移すなど、対応に追われていた様子がわかる。二条城の文化財の疎開に関する記録はこれまで確認されておらず、専門家は「緊迫した状況や意思決定の過程を示す貴重な史料だ」としている。(京都総局 夏井崇裕)

 城を管理する京都市元離宮二条城事務所が2019年から事務所で保管する史料の調査を進める中で、狩野派の障壁画など文化財1250点の疎開に関する公文書3点を見つけた。事務所内でもこうした公文書の存在は知られておらず、市歴史資料館と同事務所が内容の調査を進めている。

 疎開の検討が本格化したのは、1944年7月に南洋の最重要拠点・サイパン島が陥落し、本土空襲が広がり出していた45年1月とみられる。1月18日付の文書によると、市の担当職員らが協議し、京都・伏見の酒蔵などが候補に挙がったが、「早急には輸送不能」などの理由で城内の米蔵への避難を決めたという。

 3月10日の東京大空襲を受け、文部省(当時)は同22日、空襲時に主要建物への延焼を防ぐため、一部建物の取り壊しを市に要請。二の丸御殿の彫刻欄間や天井画などが取り外され、6月末までに六つの米蔵に計1250点が収納された。

 さらに、文書「国宝城外疎開一件」からは文部省と京都府が6月21日までに市に対し、「城外安全地帯に搬出疎開の急速実施」を求めたことがわかる。市は7月1日から急ぎ作業を進め、720点を米蔵から、市西部の大覚寺と臨川寺、滋賀県三谷村(現・高島市)の国民学校分教場へ分散して疎開させた。530点は米蔵に残されたとみられる。

 京都市は大きな空襲を受けることなく終戦を迎え、文化財は城に戻された。

 京都、奈良を中心とした寺社の仏像など文化財の疎開は各地で行われたが、疎開先を決めた経緯や運用実態は記録が少なく、明らかになっていないことが多い。市歴史資料館の秋元せき・主任歴史調査員は「文化財の集積する京都でも、戦火から文化財を守るための具体的な動きがわかる公文書は、これまでほとんど知られていなかった。国や現場がどのような視点で保存に取り組んだのかを明らかにしていきたい」と話した。

 文書の一部は、同館の特別展「二条離宮」で2月22日まで公開している。

◆二条城=徳川家康が京都の居所として1603年に築造した。1867年に15代将軍・慶喜が大政奉還を表明した場所としても知られる。84年に宮内省所管の離宮「二条離宮」となり、1939年に京都市に下賜。94年に清水寺や金閣寺などとともに世界遺産に登録された。二の丸御殿の6棟が国宝に指定されているほか、狩野派の障壁画など重要文化財も多く所蔵する。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください