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特攻隊長の遺書、3人の妹に「僕がまもってゐるから大安心」…市民団体「自らをも励ました」

読売新聞 / 2025年2月3日 16時0分

藤井大尉が弟の治芳さんらに宛てた遺書

 太平洋戦争末期、大分県宇佐市で編成された特攻隊の隊長となり、27歳の若さで戦死した藤井真治大尉(1917~45年)の遺書や写真の数々が見つかった。「いつまでもまもってあげるからね」。ひらがなでつづられた遺書からは、残された幼い弟妹への気遣いがにじむ。(大石健一)

8人きょうだい長男

 藤井大尉は宮崎県都城市出身で、8人きょうだいの長男。京都帝大(現・京都大)を卒業後、南太平洋の最前線に展開するラバウル海軍航空隊で米軍と死闘を演じた。1944年に宇佐海軍航空隊の教官になると、教え子にも慕われたという。

 米軍が沖縄本島に上陸した45年4月1日頃、同航空隊にできた「神風特別攻撃隊第一八幡はちまん護皇隊ごおうたい」の初代隊長に。6日午後、同隊の16機は鹿児島県の串良基地から沖縄へ向けて飛び立ち、藤井大尉機は午後6時37分過ぎに消息を絶った。軍には「(米軍の)空母に突入せるものと認む」という記録が残されている。

「ムダ死はしません」

 遺書は4月2~6日に書かれたものだ。

 2日には「親不孝ばかりして来ました」などと肉親に向けた思いが丁寧に書かれている。出撃前日の5日には「ムダ死はしません。必ず空母を沈めます」と勇ましい言葉を連ねたが、「早く疎開しないと汽車がだめになりますよ」と家族を気遣う様子もうかがえる。

 出撃当日の朝の手紙は走り書きだった。「愈々いよいよ本日午后ごご特攻をかけます。残った者も頑張って下さい。弱い気を出さず張り切って」

 特に気にかけたのは弟や妹たちのことだ。3人の妹には「僕がまもってゐるから大安心だ」と励ます言葉を贈った。弟の治芳はるほさんには「しっかりがんばって下さい いつまでもまもってあげるからね」と書いた。2023年に亡くなった治芳さんは後に建設官僚となり、日本道路公団の総裁も務めて「ミスター高速道路」と呼ばれることになる。

来月から展示へ

 軍服姿の藤井大尉や家族の写真、経歴書などを含む資料は昨夏、藤井家と交流のある市民団体の平田崇英さん(76)が、治芳さんの遺族から託された。平田さんは「隊長として勇ましいことしか書けなかったのだろう」と推し量り、「きょうだいを安心させようと語りかけながら、自らをも励ました言葉だったのではないか」と思いを寄せる。

 宇佐市は3月から市立図書館で展示する予定で、是永修治市長は「特攻とは何だったのかを考え、戦争の悲惨さ、平和の大切さを学んでほしい」としている。

航空特攻 3875人戦死

 爆弾を積んだ航空機で敵艦に体当たりする作戦は、海軍が1944年10月にフィリピンで「神風特別攻撃隊」を編成したのが始まり。戦局を打開するための切り札として陸軍も追随した。

 45年3月に米軍の沖縄侵攻が始まると、陸軍は鹿児島県の知覧、万世両基地、海軍も同県の鹿屋基地、宮崎県の宮崎基地などから特攻隊を次々に送り込んだ。

 「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」(東京)によると、航空特攻による戦死者は、陸海軍合わせて3875人に上ったという。

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