焦点:ウクライナ巡り市民が告発し合うロシア、「密告と人民の敵の時代再び」
ロイター / 2024年11月22日 15時13分
11月15日、 今年1月末、モスクワ北西部の第140総合病院の小児科医ナデズダ・ブヤノワ医師のもとに、ある女性が7才の息子を連れて行った。写真は12日、モスクワの法廷に出廷したブヤノワ氏(2024年 ロイター/Evgenia Novozhenina)
Mark Trevelyan
[ロンドン 15日 ロイター] - 今年1月末、モスクワ北西部の第140総合病院の小児科医ナデズダ・ブヤノワ医師(68)のもとに、ある女性が7才の息子を連れて行った。片方の目の具合が悪かったためだ。
そして、18分間の診察の際にこの医師と女性との間で交わされたとされる会話が、2人の人生を一変させた。医師の方は、訴追され刑務所に送られることになった。
この事件のカギは「密告」だ。ロシアでは、市民が身近な人を、ウクライナ侵攻に対する批判やその他の政治犯罪の疑いで当局に通報する風潮が広がっている。密告の増加がプーチン大統領による反体制派の弾圧を加速させているという批判もある。
息子を受診させた母親アナスタシア・アキンシナさんは、病院を後にした直後に動画を撮影していた。この動画でアキンシナさんは、父親がウクライナでロシアのために戦い命を落としたことで息子がトラウマを抱えていると医師に伝えたと、涙をこらえながら話した。
「医師の返事を想像できるだろうか。『おや、何と申し上げればいいやら。ウクライナにしてみれば、あなたの夫は正当な標的だったのでしょう』」と、アキンシナさんは医師の声色や抑揚を真似しながら続けた。アキンシナさんは苦情を入れたが、病院側が事案をうやむやにしようとしていると感じたという。
「そうなると問題は、この場合、あの女をこの国から叩き出すなり監獄に放り込むなりするには、どこに文句を言えばいいのかということだ」と、アキンシナさんは動画の中で訴えた。
この動画はソーシャルメディアで話題を呼び、彼女は検察側の重要な証人として、注目を集める刑事裁判に出廷することになった。
ブヤノワ医師は公判で、こうした発言はしていないと否定した。だが、アキンシナさんの他に成人の証人がいなかったにもかかわらず、この告発は、同医師の人生と40年にわたるキャリアを台無しにするには十分だった。
4月以来拘置所に収監されていたブヤノワ医師は12日、グレーの髪を短く刈った姿でモスクワの裁判所に出廷した。同医師は、戦時検閲法に基づき、軍に関して「意図的に虚偽の情報を流布した」罪で有罪とされ、遠隔地の刑務所における5年半の禁固刑の判決を受けた。
ブヤノワ医師はウクライナ生まれだがロシア国籍を持ち、30年にわたりロシアで生活し働いてきた。彼女の弁護士オスカル・チェルジエフ氏はロイターに対し、弁護団はアキンシナさんによる告発は、ブヤノワ医師がウクライナ出身であることを理由とする悪意によるものだと考えている、と語った。
この記事のためにアキンシナさんに書簡により質問を送ったが回答はなく、また電話への応答もなかった。
ロシアの独立系メディア「メディアゾナ」による書き起こしによれば、アキンシナさんは裁判で、「私たちはロシア人だ。ブヤノワはロシア人を憎んでいる。彼女は私に対して敵意を抱いている。私はそう考えている」と述べた。
ロシアの人権団体OVDインフォに参加するエバ・レベンバーグ弁護士によると、同団体は2022年にロシアがウクライナへの全面侵攻を開始して以来、密告に基づく政治的な動機による事件として21件を記録しているという。
ドイツ在住のレベンバーグ弁護士は、やはりウクライナ侵攻開始後、その他にも175人が密告により「ロシア軍の信用をおとしめた」として行政処分に問われており、そのうち79人が罰金刑を受けたとしている。
ロイターでは、レベンバーグ弁護士が示した数字について独自の裏付けを得られなかった。
このデータや、ブヤノワ医師の事件を含め、訴追の根拠として密告を利用することについてロシア司法省にコメントを求めたが、回答はなかった。プーチン大統領のペスコフ報道官はロイターからの質問に対して、ロシア政府は裁判所の判決についてコメントしないと回答した。
<「クズどもと裏切り者」>
プーチン大統領は、ロシアは西側諸国を相手とする代理戦争を戦っているとして、市民は「内なる敵」の摘発に貢献しなければならないと述べている。侵攻開始から数週間後の2022年3月、プーチン氏は「ロシア国民は常に、真の愛国者とクズども、裏切り者を見分け、たまたま口に飛び込んできたブヨを吐き出すように、奴らを追放することができるだろう」と述べた。
OVDインフォによれば、対ウクライナ戦争の開始以来、さまざまな形で反戦や抗議の声を上げたことにより2万人以上が当局に拘束され、1094人が刑事訴訟の対象となったという。
報道や裁判、ソーシャルメディアでは、近隣住民のあいだでの密告や、教会信徒による聖職者の告発、生徒による教師の密告といった例が見られるようになっている。
その結果として生まれた昨今の状況に、ソ連時代の共産党支配下における相互不信と疑いの雰囲気を重ね合わせる人もいる。
オルガ・ポドルスカヤ氏は、かつてモスクワの南にあるトゥーラ州で副市長を務めていた。本人の説明によれば、当局に対抗する姿勢の独立心に富む地方政治家として「厄介者」との評判を集めていたという。ウクライナ侵攻が始まってからまもなく、同氏は、この侵攻を「前代未聞の残虐行為」と表現する公開書簡の署名人に名を連ね、市民に、侵攻反対の声をあげるよう呼びかけた。
4カ月後、ポドルスカヤ氏は市民による告発を受けた。2020年に参加した抗議行動に伴う罰金を納めるために市民からの寄付を募ったことを受けて、同氏の経済状態に対する調査を行うよう求める内容だった。告発者は「オルガ・ミネンコワ」と名乗っていたが、ポドルスカヤ氏によればそのような人物は確認できず、架空の名義による告発ではないかと疑っているという。ロイターは告発状の写しを閲覧したが、提出者は確認できなかった。
その後も、ポドルスカヤ氏と夫に対する市民による告発が続いた。その当時の心境についての質問に対してポドルスカヤ氏は、1938年、ヨシフ・スターリンによる独裁体制下のソ連で、何者かの密告により処刑された曾祖父のことを考えていたと語る。
「密告と『人民の敵』の時代が戻ってきた。私に、国を出るべきだとほのめかしているのだと理解した」とポドルスカヤ氏は言う。
ポドルスカヤ氏は2023年4月にロシアを離れた。その年9月、同氏は司法省の「外国の工作員」リストに掲載された。身の安全を守るために、同氏はロイターに対し、現在の居場所を明らかにしないよう求めている。
<「昔風の人物」>
アンドレイ・プロコフィエフ医師は2023年、「アンナ・コロウコワ」と名乗る告発マニアの標的になった。勤務先には、外国のニュースサイトに投稿した反戦コメントを理由に解雇すべきだという書簡が届いた。
コロウコワと名乗る人物は昨年、標的の1人にした社会学者アレクサンドラ・アルキポワ氏への書簡の中で、自分の祖父はスターリン体制下の秘密警察NKVD(内務人民委員部)で働いており、告発行為は自分の「血筋だ」と書いている。アルキポワ氏はこの書簡をメッセージアプリ「テレグラム」に転載した。
コロウコワ氏は、開戦後の1年間だけで、外国メディアに意見を述べたロシア人を中心に764人を複数の政府機関に告発した。同氏は自分の活動を「敵船を破壊する潜水艦」に例えている。
コロウコワ氏にコメントを求めたが、回答はなかった。ロイターではコロウコワ氏の活動の範囲や影響について確認することができなかった。
プロコフィエフ氏はロイターの取材に対し、ドイツ在住のため特に影響は受けていないと話している。ただし同氏は、ロシアへの帰国には不安を感じてる。「無事に空港から出られるとは思わない。すぐに刑事訴訟が始まるだろうから」
プロコフィエフ氏はブヤノワ医師の事件には特に関心を持っている。ロシアにいた頃、息子が診てもらっていたからだ。同氏によれば、ブヤノワ医師は物静かで控えめな人物だったという。「昔ながらの人物」で、1本か2本の指でぎこちなくPCのキーボードを叩いていたという。
ブヤノワ医師に対する判決には、若干の反撃も見られる。プロコフィエフ氏は、ブヤノワ医師への連帯を表明する合計1035人の医師による公開書簡に名を連ねた。若者を医学の世界から遠ざけてしまいかねないと警告する内容だった。連帯のメッセージを編集してフェイスブックに投稿された動画に、手術着姿で出演した医師もいる。
ブヤノワ医師支援の他、故アレクセイ・ナワルヌイ氏などの反体制活動家を支援する書簡にも参加したアレクサンドル・ポルパン医師は、少なくとも7人の医師らが、署名に参加した後に警察の事情聴取を受けたと話す。ロイターではこうした事情聴取について裏付けをえることができなかった。またロシア内務省にコメントを求めたが、今のところ回答はない。
ポルパン氏自身は昨年ロシアを離れた。「自分が今にも逮捕されかねないことがはっきりしたから」とロイターに語った。
ニューヨークに本部を置く国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの欧州・中央アジア担当副ディレクターを務めるレイチェル・デンバー氏は、社会的信頼の高い職業にある高齢の被告を訴追することは、ウクライナ問題に関する公式見解を否定することは誰にもできないというシグナルだと語る。
デンバー氏によれば、ブヤノワ医師が実際に、戦場にいるロシア兵をウクライナが標的とするのは当然だと発言していたとしても、国際法のもとでは正しい主張だという。
「それがジュネーブ条約の規定だから」とデンバー氏は言う。
戦争に関する国際法では、一定の状況下で、敵の戦闘員だと明らかに確認できる者に対して殺傷力を行使することが認められている。
公判において検察側は、ブヤノワ医師の携帯電話に保存されていたメッセージや画像の詳細を明らかにした。アキンシナさんとのトラブルとは無関係だったが、ウクライナ寄りで反ロシア的な人物像を描き出すために利用された形だ。
弁護側は、誰か別の人間がその携帯電話を操作しており、検察側が提示したメッセージはブヤノワ医師本人のものではないと主張した。
結審の際の最終陳述で、ブヤノワ医師は涙を流し、自分の年齢と健康状態の悪化、数十年に及ぶ社会貢献を考慮するよう求めた。
ブヤノワ医師の穏やかな風貌をあしらったTシャツを着た支援者らは、判決の際に「恥を知れ」と叫んだ。判決文が読み上げられる前に、ブヤノワ医師は自分を取り巻く状況へのショックを表明した。
ブヤノワ医師は「何が起きているのか分からない」と記者たちに語った。「後になれば分かるのかもしれない」
(翻訳:エァクレーレン)
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