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非核の願い宿る「折り鶴バッジ」、製作の半世紀に幕 福島原発事故で工場閉鎖…広島サミット、核廃絶の切望に逆行も

47NEWS / 2023年6月14日 10時0分

被団協のラッカー(左)と七宝(中央)の折り鶴バッジと、東友会の「原爆被害者救援バッヂ」。奥は被団協のバッジの金型

 「原爆許すまじ」―。広島、長崎に対する原爆攻撃の直後に命を落とした人、超高熱と爆風、放射線被害の非人道的惨禍を生き延びた人、病に倒れ、家族を失い、自ら命を絶った人たち。数知れぬ被爆者たちの魂を懸けた反核平和の願いを宿す「折り鶴バッジ」の製作を担った会社が、静かに幕を下ろしていた。半世紀に及ぶ歴史に終止符が打たれたきっかけは、東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町の工場が閉鎖に追い込まれたこと。5月、被爆地で初めて開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)は、ウクライナ危機を背景に、核兵器による脅し合いで均衡を図る「核抑止」を正当化、岸田政権は防衛予算を拡大し原発回帰も進める。核廃絶の願いに逆風が強まるが、継承の意志も消えていない。(共同通信=土屋豪志)


被爆から77年の「原爆の日」を迎えた2022年8月6日、広島市の平和記念公園で手を合わせる人。左奥は原爆ドーム

 ▽永久の色
 「以前はきれいな七宝でした」。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の女性が懐かしむように話した。今、販売用に残る赤や青などの定番のバッジは楕円に白い折り鶴をあしらった昔ながらのデザインだが、色付けはラッカーを使った簡易な仕上げに変わっている。
 かつての「七宝」の奥行きある色について、バッジを製作してきた「フタバメタル」(千葉県習志野市)の元社員が話す。「金属の折り鶴バッジに色の素のガラス粉を乗せ、千数百度で焼いて表面を研ぎ出す。もちろん手作業で」
 2011年3月、東電福島第1原発事故直後に避難するまで、浪江町の工場で職人たちが丹精込めて作業に当たっていた。原発10キロ圏内。10人程度の小さな職場だった。


 「ラッカーと比べるとずっと手間がかかるが、七宝はあせない永久の色」と元職人の男性。バッジを打ち出すプレスやメッキの工程を受け持っていた習志野の工場、浪江の七宝の工場を自社で備えることで、コストを抑えられていたのが強みだったという。だが、フタバ社は2021年ごろ、先代社長の他界や職員の高齢化も相まって営業を停止した。元社員は「浪江の工場が使えなくなったのも大きい。まさか閉めるとは思っていなかった。寂しいよ」と惜しむ。


東京電力福島第1原発(手前)。奥は福島県双葉町や浪江町が広がる=2021年1月8日(共同通信社ヘリから)

 ▽被爆者支える
 折り鶴が非核と平和のシンボルになったのは、2歳の時に広島で被爆し、回復を願って鶴を折り続けた佐々木禎子さんが10年後に白血病で死去した悲話が内外に紹介されたことがきっかけ。この折り鶴をモチーフにしたバッジは、被団協に加盟する東京の被爆者団体「東友会」が1959年に作った「原爆被害者救援バッヂ」までさかのぼれるようだ。当時一つ20円。被爆者が互いを支え合う東友会の財政は厳しく、「売り上げを小銭袋から出して、事務員の給与に充てようとしたこともあった」と村田未知子事務局主任が話す。


佐々木禎子さん(遺族提供)


広島市の原爆資料館に展示されている、佐々木禎子さんが病床で折った鶴(佐々木繁夫さん、雅弘さん寄贈)

 1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」などが被ばく。日本全国で原水爆禁止運動が広がる中で、55年に原水爆禁止日本協議会(日本原水協)が、56年に被爆者団体の被団協が結成された。
 東友会は58年に発足。原水協、被団協と同じ東京都内の建物に同居していた頃、広島で被爆した小島利一・財政部長が金属板を自ら削って「救援バッヂ」を試作した。このバッジや折り鶴のネクタイピンを多くの人が購入し、脆弱な初期の財政の大きな支えになった。
 1980年代に入っても折り鶴バッジは人気を博した。「1万円札をどんどん渡されて、箱にもポケットにも収まりきらないほど」。広島で開かれた原水爆禁止世界大会では、バッジなどのグッズが飛ぶように売れたと、村田さんは振り返る。日本各地からカンパを預かった参加者が広島を訪れた。フタバ社は大会に合わせて原水協が作るバッジも長く請け負った。
 東友会の折り鶴バッジの製作にフタバ社が関わったのは1960年代後半から。公害解消などを求め、左派の美濃部亮吉・東京都知事の「革新都政」を後押しした市民らの「青空バッジ」を大量生産していた頃だ。当時の本社は東京・上野。「120万個は作った」と元社員は往時を懐かしむ。市民が都政に大きな影響を与えた時代、通勤電車の中で青空バッジを着けている人も多かったという。


米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験=1954年3月(ゲッティ=共同)

 ▽届いた願い
 被爆によるけがや病、原爆症の不安、家族の喪失、経済的困窮、差別など、抱えている心身の傷の数が多い人ほど、生への絶望が深まる。苦悩が深ければ深いほど、核廃絶や原爆犠牲者への慰霊の思いが強く、それらを支えに必死に生をつないだ―。
 原爆がもたらした非人道的被害に命懸けであらがう、そんな被爆者たちの心の実態が被団協の調査で明らかになっている。1985~86年、全国の被爆者ら1万3千人超を対象に行った大規模アンケートの綿密な分析結果だ。「われら生命もて ここに証す 原爆許すまじ」。東友会の慰霊碑も、被爆者の思いをそう刻む。
 「ノーモア・ヒバクシャ」。1982年の国連軍縮特別総会では長崎の被爆者、山口仙二さんが七宝の折り鶴バッジを胸に核廃絶を世界に訴えた。このバッジもフタバ社製。「核を決して許さない」。バッジに刻まれた被爆者たちの思いは2021年、核兵器禁止条約の発効に結実した。核の保有、使用、使用の威嚇などを全面的に違法化した初めての国際法だ。制定に向け市民が大きな役割を果たしたこの条約の交渉では、米国などに同調し条約に背を向け、欠席した日本政府代表の席に「あなたがここにいてくれたら」とのメッセージが記された折り鶴が置かれたこともある。


1982年の国連軍縮特別総会で、長崎で被爆した自身の写真を手に核廃絶を訴える山口仙二さん。左胸に被団協のバッジが見える=米ニューヨーク(UPI=共同)


2017年3月28日、ニューヨークの国連本部で開かれた「核兵器禁止条約」交渉の日本政府代表の席。空席となり折り鶴が置かれていた(共同)

 ▽「ヒロシマ」で反発
 G7首脳が初めて被爆地に集まった5月19~21日の広島サミットに向けて、政府は折り鶴も多用し核軍縮をアピールした。原爆慰霊碑に向かい黙とうする首脳らの姿が、核軍縮の機運につながるかもしれないとの識者の声もあった。だがG7が安全保障の要とする核抑止は「敵への核の脅し」にほかならない。「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」と称してG7が発表した声明は、ロシアのプーチン政権による核の威嚇を非難、中国の核戦力の不透明性を問題と指摘し、北朝鮮やイランの核開発も批判。一方、米国をはじめG7陣営の核は防衛目的として正当化した。核軍縮の衣で核武装のよろいを隠すようなG7首脳のメッセージは、「核と戦争を否定し続け」(平岡敬・元広島市長)、平和の象徴としての「ヒロシマ」をつくり上げてきた被爆者の活動の歴史に逆行しており、大きな反発を呼んだ。
 広島サミットでは、地球の北側に偏るG7に対し、アフリカや中南米、東南アジアなど南側に位置、温暖化などの問題に直面する新興国や途上国などの「グローバルサウス」との関係強化が掲げられた。だが「広島ビジョン」は、グローバルサウスの多くの国が支持し、被爆者が日本の加入を求め続けている核禁止条約には全く触れなかった。岸田政権が防衛費を大幅に増額し「新しい戦前」の気配が強まる中、政府が唱える「核なき世界」のかけ声と、核廃絶を切望する被爆者たちとの距離も広がる。政府はまた、五つの法改正をまとめた不透明な「束ね法案」で原発回帰を進め、東電福島第1原発事故以来の政策転換を図ってもいる。


原爆慰霊碑への献花を終え、記念写真に納まる(左から)EUのミシェル大統領、イタリアのメローニ首相、カナダのトルドー首相、フランスのマクロン大統領、岸田首相、バイデン米大統領、ドイツのショルツ首相、英国のスナク首相、EUのフォンデアライエン欧州委員長=5月19日午後、広島市の平和記念公園(代表撮影)

 ▽「まだ作れる」継承の意志
 浪江町はフタバ社の先々代の社長やバッジ作りに携わった親族ら関係者の古里で、社員らゆかりの地。「田んぼしかないあの辺の田舎から出てきて、うちで働いた若者も多かったんだ」と元社員が言う。元職人の男性は「バッジを詰めた重たい荷物を浪江から列車で上野駅までよく運んだよ」と振り返る。
 大地震と原発事故の後、避難の車が大渋滞を起こす中、後にした浪江の七宝工場は既に更地となった。被団協が注文した折り鶴バッジが千個近く残っていたはずだという。避難指示は2017年に解除された。だが、関東に暮らす別の関係者は「いまさらもう帰れない」、そう話した。
 長崎の女性被爆者の一人は、東電福島第1原発事故に心を痛めながら、事故の6年後に他界した。「日本が被爆者に真剣に向き合ってくれていたら。広島、長崎の被爆者は棄民だと思います。捨てられっぱなし。でももう、それに対してとやかく言う気はなくて。福島だけはきちっとしてほしいと思います」
 核の悲劇を二度と起こしてはならないと訴え続けてきた被爆者の平均年齢は84歳を超え、近年は毎年9千人前後が亡くなっている。
 新型コロナウイルス禍による集会の減少で、折り鶴バッジが作られる機会も減った。被団協のバッジを1トンの力でプレスしたというフタバ社の金型は、長年使われることもなく、さびも浮き始めていた。バッジや七宝を扱う業者は減少、コストは上昇し、かつてと大きく環境が変わっているという。だが、原水協元幹部は「戦争阻止、核廃絶、被爆者援護への連帯。三つの思いがこもったバッジを今もみんな着けて歩いている」と話す。「まだ作れる」。バッジ製作に携わってきた関係者は、折り鶴バッジの継承に力を込めた。


被団協の折り鶴バッジをプレスした金型

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