序ノ口はわずか2ミリ、伝統の「相撲字」で書く番付表に詰まった行司の矜持 軍配と筆を握り続けた15年、木村容堂さん書き手交代
47NEWS / 2023年7月12日 16時0分
大相撲にさほど関心のない人でも、力士たちのしこ名が書かれた「番付表」を見たことがあるのではないだろうか。最高位の横綱から大関、関脇、小結、前頭までの幕内から十両、幕下、三段目、序二段、最下位の序ノ口へと下っていき、1枚の紙に独特の毛筆書体「相撲字」で整然と明記される。今も昔も1人の行司が書き上げる。その書き手が今春、約15年ぶりに交代。後進に託したバトンならぬ筆を長年担ってきた歳月は、国技の命を受け継ぐ矜持にあふれていた。(共同通信=田井弘幸)
▽助手時代から史上最長35年の番付人生
木村容堂さん(61)=本名洞沢裕司さん、東京都出身、九重部屋=は最高位の立行司に次ぐ三役格行司で、2007年九州場所から23年初場所までの間、戦後7人目の書き手として番付表を仕上げてきた。黒枠や力士一人一人のスペースに線を引く助手時代と合わせて35年間も携わったのは、史上最長だという。今年3月の春場所から後輩行司に大役を譲り「今まで長かった人でも15年だった。気持ちとしてはもっと書きたいが、代わるべきところで代わらないといけないでしょう」と心境を語った。
番付の歴史は古い。日本相撲協会の資料によると、江戸時代の1700年頃に板に書かれたものが始まり。現在は縦110センチ、横80センチのケント紙に行司が筆で書き、それを縦58センチ、横44センチの紙に縮小して印刷し、番付表が完成する。各相撲部屋への配布用などで約40万枚が刷られ、一般には本場所会場などにおいて55円で販売される。今月9日開幕の名古屋場所では約630人の力士の他、親方や行司、呼び出し、まげを結う床山なども載っている。
木村容堂さんにとって最後の〝作品〟となった2023年1月の初場所番付
▽1日8時間、4本の筆で一心不乱、約2週間かけて完成
木村容堂さんに完成までの作業工程を尋ねると、まるで時計の針が刻々と進むかのように正確だ。
年6回の本場所終了から3日後の水曜日、相撲協会審判部が番付編成会議を開く。ここで翌場所の番付が決まり、横綱から序ノ口までの力士のしこ名だけが記された巻物を書き手が受け取る。木曜日に各力士の出身地を記入。金曜日に助手の行司と丸一日かけて読み合わせ、改名など変更点の確認を終える。
ここから本格的な執筆が始まる。1、5、9月の東京場所は土曜日、3、7、11月の地方場所は移動日を伴うため日曜日から筆を握り、約2週間で完成させるという。
東京都府中市にある2階建ての一軒家。2階の10畳ほどの洋室が木村容堂さんの仕事場だった。フローリングに座布団を敷き、大きめのテーブルにケント紙を広げて毎日書く。午前と午後に4時間ずつの計8時間、字の大小に応じて3、4種類の筆を使い分け、一心不乱に書き続ける。「夏場に冷房をかけないで書いていたら、紙に汗がしみ出て大変だった。梅雨の湿っぽい時期は筆の滑りや墨の乾きが悪い。冬に暖房をかけると墨がべたべたしてしまう」。春夏秋冬を巡る大相撲と同じく、番付表も四季折々の趣に満ちている。
一度書き始めたら外出はほとんどせず、事情を分かっている知人からは食事の誘いもない。目に負担をかけないため、横になって本を読むことは一切しない。テレビもあまり見ないという。
番付編成要領第11条には、新番付は発表日まで「極秘として扱い、何人にも発表することができない」と定められている。化粧まわしなど昇進に伴う準備が必要な新十両、新横綱と新大関を除けば、約1カ月もの間は番付の内容を一切口外してはいけない。「会って聞かれて断るのも気まずいでしょう。だから次の番付発表まではなるべく人と会わないようにしている」。番付の書き手には秘密保持を貫く強い意志、孤独に耐えられる高い人間性が求められるのだ。
夏場所で行司を務める木村容堂さん=5月24日、両国国技館
▽最後の筆は横綱と理事長、手順から浮かぶ番付社会
番付のどこから書くかは個人の裁量に任せられ、木村容堂さんは幕下から着手した。続いて三段目、序二段、序ノ口へと下りていき、関取と呼ばれる最上段の幕内と2段目に並ぶ十両で力士を終える。1日8時間で書けるのは130人程度。東西筆頭から60枚目の幕下計120人は1日で書き上げるという。最後に親方衆ら力士以外を埋めて完成する。
ただ定員42人しかいない幕内も1日かかるそうで「やっぱり見せどころだから。ここはゆっくりと、じっくりと書く」とのこだわりを力説する。文字の幅は名古屋場所でいえば、最も太くて大きな「横綱照ノ富士」が3センチ弱。階級社会の大相撲だけに三段目は3ミリ、序ノ口は2ミリと字がどんどん小さくなる。角界の隠語で序ノ口などを「虫眼鏡」と呼ぶのは、肉眼で読むのは困難との意味が込められている。
興味深いのは書く手順だ。筆を持つ手の汚れが余白につかないようにするため、どの欄も左から右へと書いていく。つまり幕内は西の最下位の幕尻からスタート。最後に筆を入れるのは力士が横綱、親方が協会トップの理事長となり、くしくも番付社会であることが作業工程からも如実に浮かび上がってくる。
新大関の霧馬山改め霧島が名古屋場所番付発表の記者会見で「入った時は文字が小さかった。大きい文字になって、すごくいい」と真っさらな新番付を手にし、うれしそうに笑った。大半の力士はわずか2ミリから土俵人生が始まる。1枚でも多く、1ミリでも字が大きくなれるよう稽古に精進し、出世を目指す。長い歴史の中で頂点の横綱はわずか73人。1枚の番付表には勝負の世界の厳しさ、挑戦する男たちの夢とドラマが詰まっている。
大相撲名古屋場所の番付表を手にする新大関霧島=6月26日、名古屋市西区の陸奥部屋宿舎
▽全ては手書き、IT全盛も受け継がれる熟練の相撲字
IT化は進む一方で人工知能(AI)にまで注目が集まり、何かと効率化が進む昨今。だが番付表はこれからも、ずっと行司による熟練の筆で書かれていく。木村容堂さんは達観したような口調で「いずれパソコンで打っても良さそうなものだが、そこは相撲界だから。毛筆で書くところがいい。やはり手書きは味わいがある。これからも変わらないでしょう」と話す。
思い出の1枚を尋ねると「いやあ…。毎場所同じ気持ちなので」と熟考しつつ、八百長問題で開催取りやめとなった2011年春場所を挙げた。
この場所は幕下から序ノ口を仕上げ、幕内にも着手。その最中に不祥事では初の中止が決まった。番付発表の必要はなくなったが、当時の放駒理事長(元大関魁傑=故人)からの指示は「とにかく書いてくれ」。最後まで書き上げた“幻の1枚”は非公開で今も相撲協会に保管されている。
木村容堂さんの15年間で会心の出来栄えはない。「どれも反省点だらけ。ここをこうすれば良かったと毎回思う。最後の1枚もいっぱいあった」と言う。毎日の取組、本場所や巡業開催会場に張り出す告知なども全て手書きの相撲字。行司は軍配よりも筆を持つ時間の方がはるかに長い。「力士の稽古と一緒で努力を怠ると腕は落ちる。自分がうまいと思うと進歩はない。若手への指導も大事。番付は書かなくなったが、これからも筆を持たない日はない。そして土俵上では力士に安心して相撲を取ってもらえる裁きが求められる。われわれ行司の仕事は周囲に信頼されてこそ成り立つ」と相撲道への誇りをにじませた。
夏場所で土俵上の勝負を裁く木村容堂さん=5月24日、両国国技館
番付表には「お客さんがぎっしりと埋まりますように」との験担ぎとして、空席を連想させる余白を極力なくす工夫も凝らされている。豊昇龍、大栄翔、若元春の3関脇が大関昇進に挑む名古屋場所は初日から「満員御礼」の盛況。この垂れ幕も相撲字だ。世界に一つだけの伝統文化には、受け継がれてきた道の奥深さがある。
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