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「ブルボン」と「ユーハイム」の原点は、関東大震災だった 「甘いお菓子が人々を笑顔に」 受け継がれる理念「災害時に役立つ企業」 #災害に備える

47NEWS / 2023年8月28日 10時0分

神戸市に移転した店で撮影したカール・ユーハイム(手前左)と従業員ら=ユーハイム提供

 今から100年前、1923年9月1日に起きた関東大震災は、人気菓子メーカーのユーハイムとブルボンにとって、原点と言える災害だ。
 ユーハイムは横浜市で被災した創業者のドイツ人が神戸市に移住。洋菓子の街・神戸の先駆けになった。新潟県柏崎市のブルボンは、震災によって首都圏からの菓子の供給が滞り、地方に届けるためビスケットの量産を始めた。「甘いお菓子は人々を笑顔にする」。共通する理念を持つ2社は、その後のさまざまな災害も乗り越え、被災地の支援を続けている。(共同通信=小林清美)

※この記事は、記者が音声でも解説しています。共同通信Podcast #40【きくリポ】を各種ポッドキャストアプリで検索いただくか、以下のリンクからお聞きください。


https://omny.fm/shows/news-2/40-100


ユーハイム創業者の故カール・ユーハイム(ユーハイム提供)

 ▽日本初のバウムクーヘン
 ユーハイムを創業した故カール・ユーハイムはドイツ出身の菓子職人だった。中国・青島で菓子店を営んでいたが、第1次世界大戦の捕虜として1915年、日本に連れてこられた。
 広島県の似島にあった収容所でお菓子作りを再開。広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の展示会で日本初となるバウムクーヘンを焼き、好評を博した。
 第一次大戦が終わると、釈放され横浜市の繁華街で1922年に洋菓子店を開業。非常に繁盛していたが、関東大震災で店が燃えてしまう。カールと家族は、知人を頼って命からがら神戸に移り住み、店を再興した。日本人向けの洋菓子が人気となり、現在も続いている。


関東大震災後、ユーハイムが神戸で再興した店(ユーハイム提供)

 現在の河本英雄社長によると、カールは「お菓子を通して人々を幸せにしたいという思いがあった。2度の大戦と震災に遭っても、お菓子づくりをやめなかった」
 1995年の阪神大震災では水やガスの供給が止まり、神戸工場が一時生産不能に。それでも、拠点をほかの工場に移してしのいだ。
 創業者の思いは、現在も受け継がれている。バウムクーヘンの基本的なレシピは創業以来変わっていない。食品添加物を使わず、職人の技術で焼き上げるという。
 「お菓子は誰かのために作る。世界中のお菓子屋さんが繋がれば、お菓子は世界を平和にする力がある。人と人を繫ぐものとして、これからもお菓子を作り続けたい」


インタビューに答えるユーハイムの河本英雄社長=東京都渋谷区、6月14日

 ▽スラムに届けるためAI搭載の製造機
 ユーハイムのその理念は意外なものも作り出した。2020年、人工知能(AI)を搭載したバウムクーヘン用オーブン「THEO(テオ)」を発売した。AIが画像センサーで職人による生地の焼き具合を学習。自動で焼き上げることができる。
 開発のきっかけは南アフリカのスラム街。河本社長が貧困層の研究者とともに訪れると、溶けたあめ玉やガムが並ぶバラックの菓子店に、大勢の人が集まっていた。誰もがニコニコとお菓子を買っていく光景に、原点を見た気がした。
 できればユーハイムのお菓子も届けたいと思ったが、賞味期限がもたない。「スイッチを入れれば自動で焼き上がる機械があればいいのでは」とひらめいた。開発には成功したものの、新型コロナウイルス禍もあり、まだ海外に届けられてはいない。それでも、日本各地の人手不足の和洋菓子店から依頼を受け、貸し出しているという。


人工知能(AI)を搭載したバウムクーヘン用オーブン「THEO(テオ)」=ユーハイム提供

 ▽洋菓子が庶民の食べ物に
 ユーハイムが根付いたことで神戸はその後、洋菓子の街として発展していく。


日本の洋菓子の歴史に詳しい大手前大の森元伸枝准教授=本人提供

 日本の洋菓子の歴史に詳しい大手前大の森元伸枝准教授(地域産業)は当時の状況をこう解説する。「洋菓子は明治後期ごろから注目されたが、大正期は原材料のバターや牛乳が高価で、一部のハイカラな人が食べるものだった」
 神戸は当時、外国人居留地で、日本人と外国人が互いの文化を尊重し合いながらコミュニティを形成していた。新しいものや外からの文化を受け入れる土壌があり、チョコレート菓子「モロゾフ」などの洋菓子店が集まるようになった。「ユーハイムが弟子を育て、弟子がまた店を出す。神戸が洋菓子の街へと発展し、庶民に広まるようになった」


ブルボン創業者の故吉田吉造(ブルボン提供)

 ▽地方にお菓子を届けたい
 チョコレート菓子などを製造するブルボンの創業者は、故吉田吉造。実家は新潟県柏崎市の和菓子店だった。
 1923年に関東大震災が起きると、首都圏の菓子工場が被災し、地方への供給が滞った。この事態を見て翌年、個人経営でビスケットの製造を始めた。
 「ビスケットは日持ちする上に食べやすく、子どもの栄養を補う役割も考えたようだ」と現在の吉田康社長は説明する。その後はドロップやチューインガム、キャラメルなど、当時としては珍しい洋菓子を積極的に取り入れた。


ブルボンの前身「北日本食品工業」が製造したビスケットなどのお菓子と広告(ブルボン提供)

 吉造はバイタリティがあり、行動的だったという。物流を安定させるため、国鉄に柏崎市から東京まで、鉄道コンテナで輸送することを上申。実現した。
 当初は「北日本製菓」。吉田社長は、その社名にも吉造の思いが込められていると語る。「新潟県だけでなく、多くの地方にお菓子を届けたいという思いがあったのだろう」。社名はその後、「北日本食品工業」に。1989年にブルボンになった。


ブルボン創業当初のビスケットの製造現場=新潟県柏崎市(ブルボン提供)

 ▽災害時に役に立つ事業を
 ブルボンにも創業当時の思いは受け継がれている。吉田社長は「現在も、迷ったら災害時に役に立てる事業を選択するようにしている」と語る。
 1995年にペットボトルのミネラルウォーターの製造を山形県で開始。直後に阪神大震災が起き、できたばかりの製品を兵庫県まで何度も送り届けた。


2007年の新潟県中越沖地震で、被災者に自社のお菓子を配るブルボン社員=ブルボン提供

 2007年の新潟県中越沖地震では震度6強の激しい揺れに見舞われた。工場や社屋が被災しながら、社員総出で避難所を回り、自社のお菓子を配った。「子どもたちが喜んでくれた。お菓子はストレスを減らすんです」


インタビューに答えるブルボンの吉田康社長=新潟県柏崎市、2023年5月30日

 吉田社長も軽トラックを運転して避難所へ通ったという。「実は地震の揺れでぎっくり腰になっていたが、自社の立て直しと地元の支援に必死で痛みを感じなかった。少し落ち着いた2週間後、突然立てなくなった」と笑う。2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震でも支援物資を届け続けた。

 自社が被災した経験から、社内の防災意識も強い。背の高いロッカーが倒れて危険だったため、すべて買い替えた。職場や工場に全員分のヘルメットを配備。東日本大震災の後は、津波の危険性がある場所の販売所は移転した。営業車には、常に携帯トイレやライフジャケットを積む。吉田社長は意図をこう語った。
 「人を笑顔にするには、まずは自分たちの防災をしっかりしなければいけない」

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