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30年前、日本の警察官たちが送り込まれたのは「戦地」だった 至近距離で撃たれ「殉職」も カンボジアPKO、政府の思惑の犠牲に

47NEWS / 2023年9月18日 10時0分

1992年10月、国連平和維持活動でカンボジアに派遣された日本の文民警察官。右から4人目が平林新一さん、左から2人目が殺害された高田晴行さん=プノンペン、平林さん提供

 1993年4月14日、警視庁の警察官だった平林新一さん(68)はカンボジアにいた。国連平和維持活動(PKO)の文民警察官として派遣されていたためだ。この日、会議に向かうため1人で国連の車を運転していると、突然、銃声が響いた。車の前方に男2人が立ち、こちらに向けて銃をかまえている。車を止めると、たちまち10人近くに囲まれ、車から引きずり降ろされた。各地でテロ攻撃を繰り返していた「ポル・ポト派」だった。男たちが持っているのはAK―47(自動小銃)。1人が平林さんの顔面に、もう1人が背中に突きつけた。その場で車と財布を奪われたものの、命は助かった。だがその約3週間後、恐れていたことが起きた―。
 地域紛争に対処するため、国連が停戦の監視や復興・復旧援助などの活動をするPKO。外務省のホームページによると、日本からは今年2月までにのべ12000人超が派遣された。このうち活動中に死者が出たのは30年前のカンボジアだけ。当時、自衛隊約1200人が道路補修や停戦監視要員として派遣されたほか、全国から集められた警察官75人も現地警察の指導などを担った。派遣された隊員のメモや「厳秘」とされた当時の総括報告を読み返すと、政府の思惑の犠牲になった実態が浮かび上がってくる。(共同通信=島田喜行、三井潔)


1992年10月、PKO要員の兵士(右端)と接触するポル・ポト派の兵士=カンボジアのカンポート近郊(共同)

 ▽無線機から悲痛な声「助けてくれ」
 平林さんが帰国後にまとめたメモによると、自身が襲撃された後、「UN(国連)職員を攻撃し、殺害する」との情報が流れ、「オランダ軍のエスコートなしでは、外に出られない状況」となった。襲撃に備えカンボジア北西部にあった拠点の周囲に「土のうを積み上げて防護を固め」た。水や食料の確保も困難になった。


インタビューに答える、元文民警察官の平林新一さん=2023年3月撮影

 約3週間後の5月4日。この日は安全情勢を協議する会合があり、平林さんは、岡山県警から派遣された高田晴行さん=当時(33)=らに久しぶりに会った。「一緒に昼飯を食ってから帰れよ」と声を掛けたが、高田さんらは「護衛のオランダ兵もいるのですぐに戻らなければいけない」と話し、オランダ兵と共に車に乗り込んだ。別の拠点に帰るためだ。
 昼過ぎ、平林さんが車列を見送った直後、「ドーン」という砲撃音と銃声が響いたのに続き、「助けてくれ」と救援を求める悲痛な声が無線機に響いた。
 「高田たちが襲われ、危ない」。平林さんらは救出に向かおうとしたが、別のオランダ兵に制止された。「動くな。待ち伏せされている」


カンボジアPKO文民警察隊長だった山崎裕人さんの総括報告。作成は1993年7月19日で厳秘と記されている

 ▽「眼前が真っ暗になった」
 襲撃事件の状況は、隊長を務めた元警察官僚山崎裕人さん(70)が残した総括報告が詳しい。帰国後の1993年7月に作成し、政府に提出された。表紙に「厳秘」と記されている。
 事件当時、首都プノンペンにいた山崎さんの元に一報が届いたのは同じ日の午後。外国人の同僚からこう伝えられた。「車列が襲撃され、日本文民警察官が死亡したもよう」
 「誤報であってほしい」と祈る中、死傷者や被害者の国籍が二転三転するなど、情報が錯綜。約1時間後に「死亡者はタカタらしい」と連絡があった。「頭の中が真っ白になる」。高田さんは岡山県警時代の部下だ。「姿が脳裏に浮かび、涙がどっとあふれてくるのを止めることができなかった」
 高田さんのほか4人がけがをしたことも判明。夕刻、銃撃された隊員1人から電話があった。「やられてしまいました」という「悲痛な響きは、今も耳に残っている」。情報はその後も錯綜。3人死亡との連絡を受け「眼前が真っ暗になった」。うち2人は存命だったものの、高田さんは死亡していた。


インタビューに答える、元文民警察隊長の山崎裕人さん=3月30日、東京都港区

 犯行はやはりポル・ポト派とみられた。彼らは政権を取っていた際、カンボジア国民約200万人を虐殺したとされた。後に和平に合意し、PKOも認めたものの、武装解除には応じていない。カンボジアでは1993年5月に国連主導の選挙が予定されていたが、ポル・ポト派は参加せず、各地で襲撃を繰り返していた。
 その後、襲撃の詳しい状況が分かってきた。高田さんたちの車列は6台。機関銃を積んだオランダ軍の先導車が「砲撃を受け」て逃げ、後方の車もUターンして離脱。高田さんら文民警察官とオランダ軍幹部が乗った2台が残され「集中砲火を浴びた」。
 武装兵2人が「高田に車から降りるように指示、『ギブアップ、ギブアップ』と叫ぶ高田に、1メートルの至近距離から1発、銃弾を撃ち込んだ」。救出までの2時間、「高田は意識があった」という。


カンボジアPKO文民警察隊長だった山崎裕人さんの総括報告。武装勢力に襲撃された高田晴行さんが銃撃を受けた記述がある

 ▽「国連や日本政府とけんかしても全員で帰国しよう」
 平林さんが、襲われた同僚たちと対面したのは野戦病院だった。血だらけの仲間が次々と運ばれてくる。高田さんの顔は血の気がなく真っ白。平林さんは思わず叫んだ。「たかたー!」。すると本人の体がぴくっと動いたが、返答はない。「厳しい」。最悪の事態が頭をよぎった。
 平林さんは、後頭部を撃たれた別の仲間を移送するためヘリに同乗した。同僚の意識はもうろうとしている。「しっかりしろ」と呼び続けた。この同僚は一命を取り留めた。


1992年12月、カンボジア・アンコールワットを休暇で訪れた平林新一さん(中央左)と高田晴行さん(同右)=平林さん提供

 事件後、隊長の山崎さんは「撤収命令」を出した。隊員たちには「これは隊長命令である」とも伝えた。当時の心境が総括報告に記載されている。
 「最悪の事態を迎えて、私の心の中にほんの少し残っていたカンボジアに尽くそうという気持ちは跡形なく消し飛んでしまった」「日本が国際貢献するのはいいが、もはややるべきことは終わった。国連、日本政府とけんかしても全員で帰国しよう」
 この考えが変わったのは、高田さんの遺体との対面がきっかけだ。事件翌日、収容袋のファスナーを開けた瞬間、涙があふれ、号泣した。「高田の死を無駄にしない」と思い直し、命令を撤回。地元警察の指導などの任務を続けた。


 ▽警察官の赴任先は「戦地」
 「文民警察官1人死亡、4人重軽傷」。当時のカンボジア大使、故今川幸雄さんは生前、事件の一報に接した際、「悪い予感が的中した」と思ったと打ち明けた。
 前月には国連ボランティア中田厚仁さんがやはりカンボジアで何者かに撃たれて死亡していた。
 ポル・ポト派の攻撃が各地で頻発。和平に合意しながら、総選挙への妨害工作を強めていた。選挙をしても敗北濃厚だったためだ。PKOで派遣された自衛隊員第1陣約600人と文民警察官75人が前年秋に到着した直後から、今川さんはポル・ポト派の不穏な動きを把握していた。
 自衛隊は「ポト派が皆無」(今川さん)の地域に駐留していた。理由は、日本国内で自衛隊の派遣が憲法違反と反発する声があったためだ。加えて停戦合意などの条件が満たされない場合は撤収もできると定めた「PKO参加5原則」もあった。
 今川さんは「自衛隊の安全確保が最優先だった」と吐露。その一方で、各地の文民警察官への目配りは「不十分」と認めた。
 警察官が配置された場所の危険性は、山崎さんの総括報告でこう表現されている。「安全な所はどこにもない」。社会の注目が集まった自衛隊は安全確保が優先された一方、安全とされた警察官の赴任先は「戦地」だった。


カンボジアPKOの任務を終え帰国の途に就く山崎裕人隊長(当時、中央)。後方は殺害された高田晴行さんの遺影を手にする文民警察官ら=1993年7月7日、カンボジア首都プノンペン郊外の空港(山崎裕人氏提供)

 ▽「命の重さを忘れないでいただきたい」
 日本は1991年の湾岸戦争で「人的貢献をしない」として米国の一部から批判された。元政府高官は「この時のトラウマが、カンボジアPKOの逆バネになった」と明かし、こう打ち明けた。「冷戦終了後の国際社会で存在感をアピールし、常任理事国入りを目指したかった」
 文民警察官はまともな防弾装備も襲撃対処訓練もなく配置された。銃を向けられ、食料や水の確保も困難な中、現場を支えた。平林さんは、活動内容をつづった自身のメモの最後に政府への痛切な訴えを記している。「命の重さを忘れないでいただきたい」

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