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「唐津くんち」の曳山になぜ義経や信玄、謙信の兜が採用されたのか 江戸時代のメディア浮世絵が影響?

47NEWS / 2023年11月7日 11時0分

木綿町の「武田信玄の兜」の曳山=11月3日、佐賀県唐津市

 「エンヤ!」「ヨイサ!」
 11月2~4日、佐賀県唐津市内に力強いかけ声が響き渡った。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産にも登録されている唐津神社の秋の例大祭「唐津くんち」だ。祭りの見どころは、市街地を巡行する豪華絢爛な曳山。現存する14台は、江戸時代後期から明治時代前期にかけて作られた。獅子や鯛をかたどったものに加え、源義経や戦国武将の武田信玄、上杉謙信らの兜を模した曳山も威厳を放つ。

 だが、一度も唐津の地を踏むことのなかったであろう武将らがなぜ、曳山に選ばれたのか。不思議に思って取材すると、江戸時代に庶民の文化として広がった浮世絵や歌舞伎にたどり着いた。(共同通信=狗巻里英)


「唐津くんち」で巡行する曳山=2015年(唐津観光協会提供)


 ▽最初の兜は源義経
 曳山の重さは2~4トンで、男衆や子どもらが大きな2本の綱で引く。
 今年の唐津くんちのポスターを飾ったのは「源義経の兜」の曳山。黄金の輝きを放つ装飾に、赤や白、緑の羅紗のひもで編まれた華麗さが際立つ。唐津曳山取締会広報委員長の久保英俊さん(71)は「どこの町も自分の曳山が最高だと思っている。兜型の曳山は他にもあるが、中世の兜の組み方を残した精巧なもの」と胸を張る。


呉服町の「源義経の兜」の曳山=11月3日、佐賀県唐津市

 義経の兜の曳山は、唐津市内の呉服町が1844年に製作した。唐津神社によると、五穀豊穣を祝うみこしの警護役の武者を表すものとして兜の曳山が作られたと考えられているという。

 唐津市内に住み、唐津くんちを長年研究する吉冨寛さん(66)は、呉服町内に具足屋があったのが兜の曳山を作るきっかけになったと指摘する。義経の兜が完成した後、「武田信玄の兜」や「上杉謙信の兜」「酒吞童子と源頼光の兜」と、兜をデザインした曳山が次々に誕生した。


呉服町の「源義経の兜」=10月(久保英俊さん提供)

 吉冨さんは「それまで『兜』と呼ばれていた呉服町の曳山は、他の兜型と区別がつくように『源義経の兜』と名前を変えていった」との説を唱える。最初に義経が選ばれた理由には、歌舞伎で人気だったことも含めて諸説あると話してくれた。

 ▽信玄の兜は長野・下諏訪町所蔵のものか
 義経の兜から約20年後、木綿町が「武田信玄の兜」の曳山を製作した。りりしい鹿の角と白い毛の飾りが特徴的だ。信玄ゆかりの兜として最も有名で、諏訪湖博物館・赤彦記念館(長野県下諏訪町)に所蔵される「諏訪法性兜」をアレンジしたものとみられる。


上杉家と深い親交があったとされる清浄心院所蔵の「上杉謙信甲冑像」(高野山 別格本山 清浄心院提供)

 武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島の戦い」は江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃の演目となり、庶民に広く受け入れられた。吉冨さんは、こうした人気が曳山の製作につながったのではないかと推察する。

 ▽川中島合戦の浮世絵に類似

 一方の上杉謙信の曳山は1869年に製作された。山形県の米沢市上杉博物館の学芸員・阿部哲人さん(54)は、このモデルとなった兜は「実在するものとしては確認できない」との見解を示す。

 謙信の肖像画として一般的に知られているのは出家した姿だ。「甲冑姿のものは江戸時代初期に描かれたとされる清浄心院所蔵の一点のみ」と清浄心院高野山文化歴史研究所所長の木下浩良さん(63)は話す。だが、この肖像画は、曳山の兜とは見た目が異なる。


平野町の「上杉謙信の兜」の曳山=11月3日、佐賀県唐津市

 それでは謙信の兜の由来は何なのか。「唐津くんちの曳山の物語」を著した神奈川県座間市の進藤正昭さん(81)は、江戸時代の浮世絵「川中嶌大合戦之圖」に描かれる謙信の甲冑姿と曳山の「雰囲気は似ている」と話す。同じ絵に描かれる信玄の兜も諏訪法性兜と類似しているといい、「同じ浮世絵を参考にして作ったのかもしれない」と推測する。

 川中島の浮世絵を所蔵する長野浮世絵研究会代表の川原廣美さん(69)は「参勤交代で大名が集まる江戸からの土産として、浮世絵は全国各地に広がっていた」と説明した。


武田信玄(中央)と上杉謙信(左)の一騎打ちを描いた、江戸時代の絵師歌川貞秀の「川中嶌大合戦之圖」(長野浮世絵研究会提供)

 ▽浮世絵のイメージが影響か?
 唐津神社によると、それぞれの武将の兜が曳山として作られた背景を明確に記す史料は残っていない。しかし、いずれも江戸時代の文化・芸能の影響が指摘される。

 近世の芸能史を専門とするお茶の水女子大学の神田由築教授(日本近世史)は語る。「江戸時代の歌舞伎は、歴史上の有名な人物が登場したとしても、恋愛や家族愛など人びとの生活に根ざした情愛物が主軸だった。戦国武将や貴公子としての義経の名前が知れ渡っていたことは間違いないが、勇壮なイメージは抱きづらい。曳山はビジュアルから入り、浮世絵などから着想を得た可能性がある」

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