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経済大国へとひた走った日本が〝置き去り〟にしたもの「水俣病は終わっていない」 患者らの行動は、市民が巨大企業や国と闘う先駆けになった

47NEWS / 2023年11月9日 10時30分

水俣病が初めて見つかったとされる漁村=3月14日、熊本県水俣市

 工業廃水に含まれた「メチル水銀」に汚染された魚介類。それを食べた人々が、けいれんや言葉のもつれ、感覚障害などの症状を起こし、苦しみながら多くの人が亡くなった。水俣病は、第2次世界大戦後の高度経済成長期の負の遺産で、「公害の原点」とされる。公式に確認されたのは1956年5月。当時、熊本・水俣湾では人々が原因不明の病気に苦しみ、5歳と2歳の幼い姉妹の症状がこの時に保健所に届けられたのが始まりだ。それから67年たったが、救済を求める訴訟はいまだに続いている。
 20代半ばの私たちにとって水俣病は、「4大公害病のひとつ」として歴史の授業でただ暗記しただけ。しかし、記者として熊本に赴任し、今も病気に苦しみながら闘う患者と、人生をかけて支援する人々の姿を見て、自分の無知を恥じた。


 記者としてどう向き合うべきか、どう報じるべきか。日々話しあい、取材を続けた。関係者に話を聞くうちに、この問題が水俣にとどまらず、その後の日本の市民運動に大きな影響を及ぼしていることも分かってきた。この問題は単なる「過去の出来事」ではなく、市民一人一人の今につながっているという。それは大きな驚きだった。(共同通信=小玉明依、小松陸雄)


水俣病第1次訴訟の判決公判が開かれた熊本地裁の法廷=1973年3月20日

 ▽「まだ苦しんで生きている人がいる」
 熊本県の最南端に位置する水俣はかつて、製塩業と漁業が中心だった。近代産業を興そうと、チッソの化学工場ができたのは約115年前のことだ。海に工場廃水が流され、原因不明の病にかかる人が続出した。
 調査した熊本大学の研究班は「水銀化合物が魚介類を汚染した」と明らかにしたが、チッソは因果関係を認めず、排水を止めない。患者には補償金ではなく低額の「見舞金を支払う」という契約を1959年に結んだ。
 当時は「生産力が増せば国全体が豊かになる」と言われた時代。チッソの企業城下町で被害者は声を封じられた。政府の動きもにぶく、原因が工場から出たメチル水銀との見解を出したのは、公式確認から12年後だった。
 しかし、チッソは責任を認めず、正当な補償をしようとしない。患者ら112人は1969年、チッソに損害賠償を求め熊本地裁に提訴。「第1次訴訟」の始まりだ。
 今年はこの訴訟の判決からちょうど半世紀。私たちは「50周年」の特集記事を書くべく、この時の原告で、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(67)を訪ねた。体調が悪化し、車いすが欠かせなくなった今も、公害の悲惨さを伝えている。


青空の下で笑顔を浮かべる坂本しのぶさん=2月28日、熊本県水俣市

 この日も、もつれる声を振り絞って訴えた。「(勝訴して)うれしかったが、病気は治らない。これからの生活が不安だった」
 1973年の判決は、チッソの過失・責任を認めて総額約9億3730万円の賠償を命じた。見舞金契約は公序良俗に違反し「無効」とも指摘。判決理由を要約するとこうなる。「工場廃水には危険な副反応生成物が混入する可能性が大きいのに、チッソは漫然と流した」
 当時16歳だった坂本さんの知能障害、運動障害などの症状も認め、将来においても他人の介助を全く必要としない生活を営むことは考えられないとした。チッソは控訴せず、判決は確定したが、「まだ苦しんで生きている人がいる。水俣病が終わったと思わないで」


第1次訴訟の判決後、母のあいさつを聞き泣きじゃくる坂本しのぶさん=1973年3月20日

 ▽「大企業は傲慢になる」
 原因を明らかにしようと声を挙げたのは患者だけではない。患者の訴えに共鳴した人々が、弁護団を支えようとデータを集め、法理論を構築する「水俣病研究会」をつくった。その1人にチッソの労働組合で執行委員だった山下善寛さん(83)もいる。


記者の質問に答える元チッソ労組執行委の山下善寛さん=3月7日、熊本県水俣市

 山下さんはチッソに詰め寄った患者たちが忘れられないという。病気で働けなくなり、雨漏りのする家での生活を強いられ「体を元に戻せ」などと訴える姿は「人間としての叫び」に思えた。「加害者側に加担した」という自責の念もあった。工場で原因物質を目の当たりにしていたのに、外部に話すことができなかったからだ。
 社員でありながら、チッソの株主総会に患者を背負って乗り込んだ。解雇も覚悟していた。「大企業は傲慢になる。豊かさより命が大切。『山下さんは強い』って言われるけどそれは違う。真実を貫く患者さんの芯の強さに学んだ」
 メチル水銀を含んだ工場のヘドロを閉じ込めた水俣湾の埋め立て地には、慰霊碑が建てられ、周囲にはさまざまな形の小さな石像が置かれている。患者を背負う石像は、山下さん自身という。自分の手で作り、ここに置いた。手足のしびれなど水俣病特有の症状に悩まされながら、今も支援活動を続ける。「一生、水俣病を背負い続ける気持ちを忘れない」


患者さんを背負う自分の石像の頭をなでる山下さん

 ▽「加害や被害の立場を超えて一緒に考えよう」
 話を聞くほど、50年前の水俣病闘争をより詳しく知りたくなった。法廷以外で患者に寄り添い、闘った人には、作家で「苦海浄土」を発表した石牟礼道子さんや、近代史家の渡辺京二さんがいるが、2人とも亡くなっている。そこで「水俣病闘争史」を出版した元新聞記者の米本浩二さん(62)を訪ねた。本では、第1次訴訟と、同じ時期の患者たちの運動をつづり、中心的な存在として石牟礼さんと渡辺さんも描いた。今も、書籍や講演を通して闘争を語り継いでいる。
 渡辺さんは、第1次訴訟が提起される直前の1969年4月、石牟礼さんの要請を受け、「水俣病を告発する会」を設立した。目的は、司法を介さずチッソとの直接交渉を求める患者の支援。当時のデモや座り込みでは「怨」と書かれた旗がはためいた。石牟礼さんのアイデアだ。


水俣病第1次訴訟判決時に熊本地裁前で開かれた「水俣病を告発する会」の集会。「怨」と書かれた旗が立つ=1973年3月20日

 米本さんによると、怨には「被害について人に不満・不快の感情を持つ」のほか、「心に憂えることがあって、祈るような心情」の意味がある。会の活動は共感を呼び、全国に広がった。
 晩年の2人を何度も訪れたという米本さんは、怨旗を考案した石牟礼さんの思いを、著書の中で語っている。「水俣病はなぜ発生したのか、発生を許したものは何なのか。患者とともに悶えよう、加害や被害の立場を超えて一緒に考えよう、と道子は言っているのだ」


「水俣フォーラム」の講演で、登壇した米本浩二さん=4月29日、京都市

 生前の渡辺さんは闘争について、米本さんにこう表現した。「前近代による近代への異議申し立て」。経済成長を組織的に進め、個人が抑圧されていた時代に、個が目覚め、自分や社会とは何かを問いかけるようになった。米本さんはそう解釈している。
 米本さんは、2人が日常を大切にすることを訴え、晩年も闘い続けたとみている。
 「2人の足跡を見ていると、社会の流れに抗い難い時でも、立ち止まって考えれば
少しずつ道が開かれるのではないかと思う。一人一人にそれぞれの戦い方がある」


インタビューに応じる立教大の栗原彬名誉教授=3月25日、東京都品川区

 ▽水俣病は当事者運動の「先駆け」だった
 もう1人、会いたい人がいた。「証言 水俣病」や「『存在の現れ』の政治――水俣病という思想」など、多くの著作を持つ立教大の栗原彬名誉教授だ。水俣病の教訓を伝える認定NPO法人「水俣フォーラム」の理事長を10年以上務めた経験もある。
 インタビューに応じてこう語った。「闘争は、立場を超えて生存と尊厳を求める当事者の運動だった」。栗原さんは、水俣で始まった患者自身による闘争が、ハンセン病の元患者による運動や、最近では性被害を告発する「#MeToo」などの先駆けになっていたと指摘する。多少長くなるが、栗原さんの話を以下に記した。
 × × ×
 50年前の水俣病患者らの闘争は、家族が亡くなり、自分も命を落とすかもしれない、生存ぎりぎりのところから立ち上がる当事者の運動だった。だが、ただ生きるということではない。
 1959年の「見舞金契約」は人間の尊厳を踏みにじる屈辱的な契約だった。チッソと直接対話しようとした患者の川本輝夫さん=1999年死去=たちは、チッソの東京本社に乗り込み、社長と膝をつき合わして話をしようとした。社長に、チッソ社長としてではなく、自分たちと同じ1人の人間として謝罪することを求めた。
 屈辱をバネに、人間がただ生きるということではなく、いかに生きるべきかという問いをぶつけていった。患者だけでなくチッソ側も、一人一人が人間なんだということを取り戻そうとしたのだと考えられる。
 国全体が成長して豊かになることを求める社会において、声を封じられてきた人々の運動はほかにもある。性被害を告発する「#MeToo」(「私も」の意)や、ハンセン病患者、障害者などの運動も、当事者が苦しみの中から立ち上がって言葉を発し、社会を変えようとした。「当事者運動」という言葉があるが、水俣病闘争はその先駆けと言える。
 福島県で原発災害を訴える住民の運動も当事者運動のひとつ。水俣フォーラムが2011年11月に福島県白河市で開いた展覧会に、災害を被り、脱原発や放射能被害を訴え、活動するお母さんたちが大挙して訪れた。寄せられた感想に、「水俣で起こったことと福島で起こったことはそっくりだ」という言葉があった。
 水俣病闘争が提起したのは、市民社会が一人一人を尊重して初めて、被害を受ける人の置かれている状況を知り、自分が被害者にもなり得るし、絶えず加害者でもあると気づくということ。最高裁が昨年6月、東京電力福島第1原発事故を巡る集団訴訟で、国の賠償責任を認めない判決を言い渡した時には、お母さんたちの声をきかず、水俣病の教訓を学んでいないのではないかと感じた。
 しかし、今年9月に大阪地裁がチッソ、国や熊本県の責任を認め、128人の原告全員を水俣病と認定した判決は、50年前の熊本地裁の第1次訴訟判決と共鳴していると思った。この二つの水俣の裁判では、裁判長が水俣の現地を訪れた。患者ひとりひとりの声を聞き、その存在を肯定した判決だった。
 × × ×


福岡展で当時使われていた展示物などを見る来館者=10月22日、福岡市博多区

 ▽犠牲者500人の遺影。「どう生きるか」を考える
 水俣病は、今も患者と認められずに救済を求める訴訟が各地で続いている。このうち、9月の大阪地裁判決は原因企業チッソ、国や熊本県の責任を認め、128人の原告全員を水俣病と認定した。ただ、チッソ、国、県は控訴。闘いは終わらない。
 今年10月、福岡市の福岡アジア美術館で開催中の水俣フォーラム主催の「水俣・福岡展」を訪れた。もう一度水俣病の歴史を振り返り、栗原さんが語ったその後の当事者運動とのつながりを確かめたかったからだ。
 水俣フォーラムは1996年から、水俣病の歴史を写真などで伝える展覧会を各地で開いてきた。今年の「水俣・福岡展」は11月14日まで開催中だ。
 展示の終盤、スタッフから声をかけられた。案内されたのは健康被害に苦しんだ犠牲者約500人の遺影を並べたコーナー。「ひとりひとりの声を聞いてください」。展覧会の開始当初から続けられているという。
 栗原さんはこのコーナーについて、こんなことを語っていた。
 「一枚一枚の写真と対面し、目と目があう。『私がどう生きるか』ということを考えずにはいられなくなる」
 患者たちが残した声を、書籍や福岡展のような展覧会を通じて触れ続け、「何度でも思い起こす人が1人でもいれば、水俣病は風化しない」


水俣・福岡展で展示されている犠牲者の遺影=10月22日、福岡市博多区

 【取材後記】
 水俣病という長い歴史を報道するために、多くのメディアが水俣に支局を置き、専属の記者が日々を記録しているが、共同通信は熊本市にしか拠点がない。それでも患者さんや支援者は、取材に快く応じてくれた。この問題と向き合い、ひとりの人間として自身を省みながら生きてきた方々だからこそ、私たちの拙い問いに答えてくれたのかもしれない。
 栗原さんはインタビューの中で、「カノン」という音楽の形式について話してくれた。カノンは、複数の音で同じ旋律を続けざまに奏で、進む楽曲。「ひとつの旋律、それを追いかける旋律、またそれを追いかける旋律というふうにつながっている。(今回の記事には登場しないが)杉本栄子さんとか、川本輝夫さんとか、患者ではない原田正純さんとか、石牟礼道子さんとか、緒方正人さんとか、それぞれ異なる旋律なんだけど、それが前の旋律を追いかけ、つながりを作っていく」。最後に、「この記事も、旋律につながっていきますから」と背中を押してくれた。

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