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旧海軍パイロットが残したアルバムに、空から見た100年前の「帝都」 関東大震災直後、珍しい歴史的史料が示す軍艦・若宮の記録

47NEWS / 2023年11月16日 10時0分

「飛行機カラ。若宮」と書かれた峰松巌さんが保管していたアルバムの最初のページ(神奈川県逗子市で撮影、以下同)

 「空カラ見タ横浜ハ全部焼ケ失セタ様ダ」 「廃都ヲ後ニ品川ヨリ清水エト」
 一冊の古いアルバムに収められた写真一枚一枚に、手書きのこうしたコメントが添えられている。100年前の出来事を追体験するような感覚に陥りながらページをめくっていくと、歳月を超えて惨状が伝わってきた。
 10万人超の犠牲を出した1923年9月1日の関東大震災から、100年が過ぎた。アルバムは当時、救援活動に当たった海軍将校、峰松巌さんのご遺族が見せてくれたものだ。
 大震災の犠牲者の9割は火災で亡くなった。東京や横浜、神奈川県横須賀市の様子を空から捉えた写真からは木造家屋が密集した町が焼け野原になっている様子が写っている。調べていくうちに、アルバムがある軍艦の記録で、貴重な歴史的史料であることが分かってきた。(共同通信=八田尚彦)

※末尾にも写真あります


現在の神奈川県横須賀市大滝町から本町の辺り。焼け野原になった

 ▽第2次世界大戦時の航空部隊の指揮官
 アルバムは東京駅丸の内口の航空写真から始まる。「飛行機カラ。若宮」と題され「震災後ノ東京駅前」という説明が添えられている。ある軍艦とは、冒頭の題字にある「若宮」のことだ。旧海軍航空隊の歴史を語る際に最初に名前が挙がるような知る人ぞ知る軍艦で、海上で発着する水上機を搭載し、その後に登場する空母の先駆けのような存在だった。艦上での発着実験もしていたという。前身の「若宮丸」は1914年に始まった第1次世界大戦に参加し、ドイツの租借地だった中国・青島で水上機が上空から偵察や爆弾投下を行っている。


軍艦「若宮」が搭載していた水上機

 1898年生まれの峰松さんが大震災当時、その若宮に乗艦していたという記録が官報に残っている。1923年1月に乗組員になり、大震災後に霞ケ浦海軍航空隊の航空術学生へ異動。その約1年後に「飛行機操縦者タルヘキ学生」として卒業、とあった。峰松さんが大震災後にパイロットになったことがうかがえる。
 航空年鑑や海軍航空史、「戦史叢書」などを当たると、峰松さんはその後、霞ケ浦海軍航空隊教官、横須賀海軍航空隊分隊長、海軍兵学校教官などを歴任。第2次世界大戦では大佐として航空部隊の指揮官を務めている。操縦士としての飛行時間が「1500時間」という記述もあった。


現在の東京都墨田区両国にあった旧国技館。一帯は焼失し、バラックが点在している

 ▽軍艦に乗って避難する人々の写真も
 アルバムに残る写真の約半数は、航空写真だ。大震災の惨状を伝える航空写真としては、宮内庁や防衛省防衛研究所(東京都新宿区)に保存されている陸軍や横須賀海軍航空隊撮影のものがよく知られているが、アルバムの写真はそれらにないものばかり。非常に珍しい史料と言える。
 防衛省防衛研究所が保管している海軍の公文書「公文備考」をひもといてみたところ、大震災後の1923年11月に若宮の鈴木義一艦長が当時の海軍省軍務局に提出した報告書があった。


軍艦「若宮」で避難する被災者ら。説明には艦上に女性用仮設トイレ(左下付近)が設置されたことが記されている

 この報告書によれば若宮は大震災が起きた時、中国東北部の遼東半島沖に停泊していた。知らせを受けて長崎・佐世保港でガソリンや食料、衣類、医薬品などの救援物資を積み込み、9月10日に神奈川・横須賀沖に到着。18日に東京・品川沖を出発し、翌日には静岡県・清水港に避難民約600人を送り届けている。そして10月5日に救援活動を終え、品川を離れたとある。
 アルバムにも、報告書と符合する避難民の海上輸送の写真がある。おそらく峰松さんが実際に見た光景だろう。艦上の様子が分かる写真にはこんな記述がある。「一包ノ荷物之ガ家財ノ総デアル 慰安ノ蓄音機ニ耳ヲカス者モナク労レ切ッタ体ヲ船中所狭マシト計ニ横タヘタ」「落チ行ク先ハ?」


焼け野原になった現在の横浜中心部。右下が神奈川県庁、左上が横浜公園

 ▽危機一髪で火災から逃れ
 アルバムには若宮の救援活動期間外に撮られたとみられる写真もある。たとえば、黒煙が上がる海上火災のさなかを避難する軍艦「榛名」をおそらく海上から撮った写真だ。


現在の神奈川県横須賀市で発生した海上火災。説明には「左ハ危ク逃レントスル榛名」などとある

 「東京震災録」という資料を見ると、現在の神奈川県横須賀市で1923年9月1日に海上火災が発生している。被災した重油タンクから油が海に流出したのだ。軍港に停泊していた榛名は、延焼を免れるため港外へ避難した。この震災録によると、その時の状況は「危機一髪の間に迫りしも、幸に災厄を免れ」と記されている。写真はまさにその時の様子を捉えたものだろう。
 次は愛媛県宇和島市の航空写真だ。説明には「宇和島市 市制三周年ヲ迎へ祝賀ノ為ニ上空ヨリ」とある。宇和島市の誕生は1921年8月。3周年は24年8月。すると、アルバムが作成されたのは少なくとも震災後1年ほどたってから、ということになる。若宮と宇和島に何らかのつながりがあったことを推測させるが、大震災との関係は不明だ。


愛媛県宇和島市の航空写真

 アルバムにはほかに、収集したとみられる写真も複数枚貼られていた。大規模火災で約3万8千人が命を落とし、最も悲惨な現場と言われた現在の東京都墨田区の旧陸軍被服廠跡地の惨状の写真だが、これは絵はがきとして当時、市中に出回ったものと思われる。
 「艦首ヲ貫カレタ!」というコメントが付けられた写真もあった。海軍の公文書「公文備考」には1923年10月10日、若宮が三重・鳥羽沖で潜水艦と衝突事故を起こした報告書がある。この報告書に写真は載っていなかったが、アルバムには残されていた。


軍艦「若宮」と潜水艦が三重・鳥羽沖で起こした衝突事故

 ▽軍事機密との関連も?
 アルバムには軍内部の人間しか撮れない写真が多くあり、若宮の乗組員が撮影したものや海軍内部で保管されていた写真などを収集して作成した可能性が高い。大震災当時、軍機保護法や要塞地帯法によって、軍事機密の公開は厳しく制限されていた。峰松さんが長らく個人的に保管していた背景にはこうした理由があるのだろう。


焼け野原になった現在の神奈川県横須賀市本町一帯。左上は海軍の横須賀鎮守府。跡地には今、在日米海軍司令部が置かれている

 アルバムの終盤には1923年10月20日の日付で「共ニ働イタ人々 若宮士官室」という説明が付いた集合写真が貼られている。峰松さん本人も写っている。官報によれば、大震災時に若宮の艦長だった津留雄三氏はこの時、任を解かれている。最後に将校らで記念写真を撮ったのだろう。写真の裏には全員の名前が書かれており、峰松さんの部分には「航海士少尉」とあった。


若宮の士官室で撮影された将校らの集合写真。3列目右から2人目が峰松巌さん。2列目右から2人目が下山二郎さん、1列目中央は退任する津留雄三艦長

 アルバムはなぜ作られたのか。その背景を推し量る上で、気になる人物がいる。峰松さんと同時期に若宮に乗艦していた下山二郎さんだ。長崎の大村海軍航空隊から若宮に異動してきた人物で、若宮では航空長を務め、水上機の運用に責任ある立場だったとみられる。大震災後は霞ケ浦海軍航空隊の教官となり、航空術学生となった峰松さんを指導する立場にいた。アルバムの最後に、その下山さんの顔写真が大きく貼られているのだ。

 峰松さんの軍歴を眺めていると、若宮の乗艦経験と下山さんとの出会いがパイロットの道に進むきっかけになったのではないかと思えてくる。推測になるがこのアルバムは、若宮で同じ釜の飯を食べ親交を深めていった2人が、震災を振り返り、私的な記録としてとどめようと考えて作成したものなのかもしれない。
 期せずして日の目を見た今、これらの写真はさまざまな研究の基礎史料になると専門家から注目されている。


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